終わりを願って恋が始まる。

第2話 終わる恋、終わらない恋

村松遥 その2

「このXに代入する数値を求めるためにはどうすればいいかわかりますか? ……先にYの数値を求めます」

 キュポ、というペンの蓋を開ける音が聞こえ、ホワイトボードに数式が書き込まれる。
 荻野要先生の授業は基本的に生徒に当てることはない。一度は質問を投げかけるがすぐに自分で答えをホワイトボードに書いてしまう。
 ここは学校ではなく塾なので過度に生徒とコミュニケーションを取る必要はないが、正直言って荻野先生の授業は退屈でつまらない。
 授業が終わると、生徒たちはすぐに荻野先生の存在を忘れて騒ぎ出し、一階へと降りていく。
 私たちの塾は二階が授業を行う教室、一階が自習スペースになっている。
 私はまりとともに教室を出る寸前まで、一人でホワイトボードを消している荻野先生の背中を見ていた。

 荻野先生と初めて会った日のことは覚えていない。高校一年の最初から通っていた塾にいつのまにかいた、その程度の認識で、存在感のない先生だった。
 しかし、意識し始めた日のことは明確に思い出せる。
 それは二学期の中間テストが終わった日のことだ。

 私たちが通う塾はさほど厳しくなく、テスト週間が終わった日にわざわざ勉強するような真面目な生徒はいなかった。それは塾側も把握しているようで、授業は行わず、一階の自習スペースを解放しているだけだった。

 だから私は、塾に来たのだ。

 誰もいない教室に一人腰掛け、呆然と宙を見つめる。はたから見ればテストの結果が散々で魂が抜けているように見えるだろうが、テストなんてどうでもよかった。むしろこんな精神状態、環境下で受けただけでも褒めて欲しい。

 先週、親が離婚した。

 あまりに突然だった。両親はとても仲がいいという印象もなかったが仲が悪いという印象もなかった。いたって普通な、子どもである私に対ししっかりと愛情を注いでくれていた両親だった。
 明日からテスト本番というタイミングで告げられ、私は現実から逃げるようにテスト用紙に向かった。しかしそれも終わった今、避け続けた現実と向き合う時が来たのだ。

 パパが出ていく。苗字が変わる。母子家庭になる。

 他にも離婚や事故やもともとという理由で片親の友人はいくらでもいる。彼らは存外平気そうで、そんなものなのかと思っていたがいざ自分がそうなるとショックだった。
 甘く見ていた。家庭環境が及ぼすストレスを。自分自身を。
 気がつけば、いつも頭の中で音が混ざり聞こえてくる音楽がなくなっていた。無音の世界に身を置いているとぐわぁっと眼球の隙間から涙が湧いてきて、私は机に伏して泣いた。

「ここで寝たらダメだよ」

 間抜けな声がうっとうしくて、顔を上げると私の泣き顔を見て先生の顔はギョッとする。名前は確か、荻野、だったかな。

「大丈夫? 具合悪い?」
「大丈夫じゃないよ」
「名前は?」
「えっと……」

 名前、もう違うんだよな。

「……村松遥です」
「村松さん、今日はもう帰りなさい。一人で帰れるか?」
「泣いてる女子高生を追い出そうとするなよ」
「そんなつもりじゃ……」

 荻野先生はこめかみをぽりぽりと掻いて、私に対ししっかりと頭を下げた。

「すみません」

 やけに素直だな。……めんどくさがってるだけか?
 どちらにしてもそんな先生を見て少し落ち着いた。

「こっちこそごめん、八つ当たりしました」

 袖で乱暴に目をこすり、私はわざと明るく喋る。八つ当たりついでに先生にはサンドバックになってもらうことにした。本当はまりに話したいけど、心配させちゃうから。

「うちさ、親が離婚するんだよね」
「……そうですか」
「原因はパパの浮気なんだけど、パパはママと付き合ってる頃から浮気癖があったんだって。それでもいいってママは結婚したんだけどパパが男と不倫してたって知ってママがめちゃくちゃ怒って。女としてのプライドじゃない? 知らないけど。それでソッコー離婚ってなったらしいけどさ、いやいや私の立場は? 二人は私のこと、ちょっとでも考えたのって。パパは私のこと……」

 頭の中でぐちゃぐちゃになっていたものを言葉にするうちに、胸の中に溜まっていたヘドロのような重たいものがどこかへ流れていくのを感じた。
 また少しだけ涙が出て、袖で拭おうとすると目の前に白いハンカチが差し出される。なんだよ荻野、意外と紳士的じゃん。

「……どうも」

 私は素直に受け取り、目の周りの水分を拭き取ると荻野先生の目線に気がついた。

「……なんですか?」

 荻野先生の目は泣いている子どもをあやす大人の目、ではなく純粋に驚いているようだった。

「いや、デジャブっていうか。昔好きだった人に似てるなと思って」
「は?」

 私が引くよりも前に、荻野先生は自分の発言の不適切さに慌て始めた。

「あ! これまずいな。ちょっと、今のなしで」

 確かにちょっとキモかった。
 でも今もどうしようと頭を掻いている荻野先生が可笑しくて私は久しぶりに心から笑った。

 荻野先生を意識し始めたのはこの日からだ。


荻野要 その2


 あの日以来、村松遥の様子がおかしい。あの日、とは彼女が自習室で一人、泣いていた時のことだ。
 あれからやたらと目が合う、というか常に見られている気がする。
 挙句、授業が終わると帰ろうとする友人に別れを告げ、勉強するわけでもないのに塾を閉めるまで塾に残るようになった。
 みんなが帰った自習スペースに、村松遥と監視役の俺だけ。
 最初はあの時の発言をネタに金品の要求やテストの問題をあらかじめ教えろ、などと脅されるのかと肝を冷やしたがいくら経っても彼女からは何も言ってこなかった。
 あいつは一体、何を考えているのか。
 その疑問は突然晴れることとなる。

「荻野先生、村松さんに気に入られてますね」
「は?」
「私、聞いちゃったんです。山本まりさんから。遥は荻野先生のこと好きだからいつも塾に残ってる。だから一緒に帰れなくて寂しいって」
「はぁ……は?!」

 問題起こさないでくださいよー、と若い女性の塾講師はニヤニヤと笑いながら指導室を去っていった。完全に面白がっている様子だ。
 ぽつんと取り残されて一人。思い返せば、彼女の理由不明の行動は全てたった一つの説明で合点が行く。

 村松遥は俺のことが好きだから。

「えぇ……」

 しかし、やはり納得がいかない。俺が彼女に好かれる理由になんの心当たりもない。むしろ嫌われる方が自然だ。
 そうだ。好きと嫌いは紙一重というじゃないか。

 村松遥は俺のことが嫌いだから。

 だからずっと監視している。そう考える方が自然だ。山本まりの情報は大人をからかう真っ赤な嘘というわけだ。
 どうして女子高生がこんなおじさんを好きになるというのか。そんなありえない可能性を少しでも信じてしまった自分がわからない。
 わからないといえば、なぜ、俺はあの時泣いている村松遥に対し、あんなことを言ってしまったのだろうかと今でも考える。
 しかし何度考えても、目の周りを赤く腫らし、水々しく潤んだ彼女の瞳が、矢崎によく似ていたから、としか言いようがない。その目を見た時の驚きと懐かしさが大人としての理性を忘れさせてしまったのだ。

 矢崎。
 高校生の頃に好きだった、いや、今でも好きなやつ。
 俺の人生を大きく狂わせた存在でありながら、あいつのおかげで俺の人生が始まったとも言える。
 あいつと知り合って、友人になって、親友になって、恋人になれなかった三年間が俺を蝕み、呪い、恋人もできずに連絡が取れなくなった今もどこかあいつの影を追ってしまっている。

 そういえば、矢崎も何を考えているのかわからないやつだったな。
 
「荻野先生」

 その声で我に帰ると目の前にカバンを持った村松遥が立っていた。腕時計を見るといつのまにか塾を閉める時間になっていた。真っ暗な窓の外から近くの信号機の青い光が入り込む。

「あぁ、帰るか。お疲れ様」
「荻野先生、今週の日曜暇ですか?」

 暇ですかって。確かに暇だが。なんだか嫌な予感がして俺はとっさに嘘をつく。

「あー予定が入ってるな」
「じゃあ来週の週末は?」
「来週もちょっと」
「じゃあ再来週は?」
「ちょ、ちょっと待って。相手の予定を聞く前に、まず要件を話せよ」

 要件ってほどでもないんですけど、と村松遥は呟くと何やら思い出したように胸の前でぎゅっと手を握る。
 あ、まずい。

「あ、やっぱり……」
「今度、デートしませんか?」

 瞬間、信号機は色を変え、黄色い明かりが彼女を照らす。これ以上は危険だ。しかし、彼女の真意を確かめずにはいられない。

「デート……? ど、どうして」
「私、荻野先生のこと好きなので」

 嫌な予感が的中したと同時に、俺たちの影が赤く染まった。
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