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「開設時の予算、ですか?」

 いつも静かな旭の声がいつもよりも大きくオフィスに響いて、全員視線を旭に向けた。旭は気づいていないのか、電話の相手との話に集中して、相槌を打ちながら指先でペンを回している。
 みんなが視線をデスクに戻した瞬間、くそっ、と旭に似合わない声と共に、がしゃんっ、と受話器が置かれた。

「どうした?」

 すかさず駿介が立ち上がり、聞き取りを始めるのにほっとしたのも束の間、すぐに旭の声が室内に響いた。

「誰か、倉庫から開設時の予算ファイルを会議室まで持ってきて」

 それだけを言い残すと、駿介と共に急ぎ足でオフィスを出ていく。
 オフィスは一瞬、呆気に取られたものの、風吹が大きく、ぱん、と手を叩いたことで現実に返った。

「部長命令よ。今、手が空いてる人は? 石川(いしかわ)? 賀永?」

 不意に名前を呼ばれ、ギョッとして顔を上げる。
 千真よりふたつ年上の石川美砂(みさ)は、しどろもどろに手元と風吹をチラチラ見ている。倉庫に行く余裕がないのか、そもそも行きたくないのかは判らないが、千真は、はいっ、と勢いよく手を上げて立ち上がった。

「賀永、行きます」

「そう。じゃあ、頼んだわよ」

「はい」

 名指しされ、行きたくない素振りを見せている先輩を無視できるほど、千真のメンタルは強くない。机の上に散らばった書類にちらりと視線を落とし、軽く嘆息したあとで、倉庫へと足を向けた。
 机上にあったのは、先月、営業部が使用した分の領収証の束である。種類毎、日付毎に分けて集計し、風吹に提出するべきものなのだが、確か期限は今週いっぱいだった気がする。今週いっぱいということは、半ばには終わらせて提出しなければならないということだ。

 あくまでも期限は最終期限であり、上司へ提出する際は、前もって提出しなければならないというのは、千真が就職して初めて知ったことである。新人研修が終わった5月、いつまでも学生気分でいるんじゃない、と風吹に叱咤されたことを思い出し、くすりと笑みがこぼれた。今ではある程度、仕事の組み立てができるくらいには、成長したつもりである。
 あれくらいなら、最悪、残業すれば終わる量だろう。頭の中で構築しながら、千真は2階にある経理部から3階の倉庫へ向けて階段を駆け上がった。
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