切なさが加速する前に
「どう、ママ。さっきの飲み方?」
「あざやかだね、頭も動かさずに綺麗に喉に放り込んだよ」
「ハード・ボイルドの主人公がそんな風に飲むんだって、その男が教えてくれたんだ。彼はかなり練習したそうだよ。初めは胸に全部こぼしてしまったって」
 あたしはその話を前に聞いたことがある。この店の客、すなわち愚か者の一人、恋次郎だ。
「私は、一発で決めて見せたんだよ、その途端、彼は私に夢中」
 と言って彼女は舌を出した。
 あたしが空いたグラスに手を伸ばす。
「あっママ、今度はソーダ割りにして。もうストレートはおしまい。女の酔っ払いはカッコ悪いでしょ?」
「酒に呑まれなきゃいいのさ」
「そうかぁ、ママの言葉は説得力があるね、あっ私のことはアイって呼んで」
「アイかい?あたしはユウコ、ピアニストはマリア」
「アイは、アルファベットのiだからね」
「アルファベットのi(アイ)なんて洒落ているね」
「でしょう?」
「どんな男だったから彼はi(アイ)を失くしたのだろうね」
「遊び人のくせにさ、紳士だったからだよ」
「ふうん、意味深だね。紳士だったからなんて」
 あたしはソーダ割りを出しながら、i(アイ)に視線を向けた。i(アイ)は視線を合わせない。
 今度は少しずつソーダ割りを飲んでいた。
「チョイ悪親父を気取って、名前は恋次郎、恋多き男だからだって言ってさ。夜遊びする時の源氏名なんだって。私達もバイト先のスナックでは源氏名使うのだからお互い様だって。ふざけているでしょう?早い話がさ、本名の彼には普通の生活があるってこと。だから、俺に本気で惚れるなよってこと」
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