切なさが加速する前に
 今宵、紛れ込んだ愚か者は初めての客なのに妙に心に引っ掛かる女だった。ふと、前から知っているような錯覚を覚えた。
 彼女が現れたのは、ほんの少し前だった
 
 カウベルが鳴った。そっとドアを開け、顔を出して店の中を覗き込んだのはどこか儚げな女だった。
 ドアの外から冬の匂いがした。
 壁に貼ったウヰスキーのポスターが冬の気配に震えた、そんな気がした。
 女はあたしと目が合うと、
「いいかしら?」という視線を投げて来た。
「いらっしゃい、どうぞ」
「私、一人なんだけど・・・」
「構わないよ、ここは静かな店だから」
 女は頷くように微笑んでから入って来た。
「あんたが開けたドアの外から冬の匂いがしたよ。まだ春は遠いようだね」
「私、北から下りて来たところだから。向こうはまだ雪の中」
「ふうん、雪の中から来たのかい?」
「私が春を知らない女で、いつも冬をまとっているのかも」
 と言って女は舌をチョロっと出した。だから冬の匂いがするのだと彼女流のジョークのように見せた。でも彼女は視線が合うと逸らした。
 店の奥からピアノの音。
♪ The way we were・・・

「マリアのピアノはその瞬間の心を映す」
「ピアニストがいるバーだって聞いていたんだけどさ、この雰囲気、私なんかが入れる店じゃなかったみたい」
「ここは気取った高級な店じゃない。場末のバーさ。安心して大丈夫だよ」
「そうかぁ、聞いた話では愚か者が集う店だって」
「ふうん、この店のことを色々と聞いて来たのかい?」
「うん、私を失くして悲しみに暮れる男が、この店で酔い潰れたとメールをくれたんだ」
 と言った彼女の瞳はちょっとだけ悪戯っぽく笑った。
「あんたを失くした男かい?」
 彼女は目を逸らした。
「あっママ、バーボンをストレートで下さい、ショット・グラスで」
「はいよ、バーボンは何がいいかな?」
「うん、ワイルド・ターキー」
 ワイルド・ターキーはアルコール度が五〇、五度のバーボンだ。あたしは黙ってショット・グラスにワイルド・ターキーを注いで彼女の前に出した。

「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」
 と女はそう言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けたのだった。
「ここは、FOOLという名のBAR・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」

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