爪先からムスク、指先からフィトンチッド
第一部
1 屋上


 正午のサイレンが鳴る。
「柏木さん、ランチいかない?」
「え、あ、あの私お弁当なの」
「へーまめなのねー。じゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい」
 柏木芳香(かしわぎよしか)は隣の席の立花真菜(かとうまな)を見送った後、ほっとしてデスクから立ち上がり、更衣室に向かう。ロッカーから弁当と巾着袋を取り出し、あたりに誰もいないことを確認してからエレベータに乗り込んだ。目指すは屋上だ。(誰もいませんように)
 エレベーターで最上階に到着したのち、階段を上がって屋上にでた。見晴らしも悪く、広さもろくにない屋上は人気のないスポットで昼休みにここへ訪れるものはない。昔見たテレビで女子社員がバレーをする光景など勿論ない。またカップルがこっそり密会するにも、人気の多い高いビルに囲まれすぎている。
「はあー。よかった。やっぱり誰もいないや」
 芳香は巾着袋からまず生成りの手拭いと石鹸を取り出し、地面から出た簡素な水道の前に行きパンプスとソックスを脱いだ。蛇口をひねり足に水をかけ、石鹸を泡立て片足ずつ指の間から、かかとまで丁寧に洗う。
「ひゃー、まだ冷たいなあー」
 入社して一か月経つが春の水はまだまだ冷たく爪先を凍えさせる。手際よく洗い終え、手拭いで丁寧に水気をふき取り、やっと人心地ついた芳香は弁当を広げた。
「はあー、落ち着くー」
 誰もいない屋上で素足を広げ、くつろぎながら薄青い空を見て、遠くの方の緑の山に目をやった。のんびりしていると下の方でランチから帰ってくる社員が見えたので芳香も慌てて仕事場に戻ることにした。


2 一瞬の香り
「ん?」
 研究室から出てきた兵部薫樹(ひょうぶしげき)は屋上に続く階段の方から女子社員が慌ててエレベーターのほうへ向かうのが見えた。(なんだ?屋上から降りてきたのか?)
 入社して10年になるが屋上で過ごすものなど初めて見る。不審に思ったが、もうすでにエレベーターは下へ向かっている。そこで薫樹は屋上に出てみることにした。古いペンキの禿げた重い金属製の扉を開けぐるりと見渡すが相変わらずせまっ苦しい。くつろげることなどできない、こんなところで昼を過ごすなんて変わっているなと思っていると、ふと一枚の布切れが目に入った。
「なんだ?手拭いか」
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