爪先からムスク、指先からフィトンチッド
第三部
1 ミント王子

仕事の帰り道、芳香は薫樹に会えるかもと思い、彼の勤める化粧品会社『銀華堂化粧品』の前を通ることにした。社員たちはすでに帰宅してしまっているが、研究開発部の薫樹は定時に帰ることがあまりない。本人が仕事が好きだという理由で残業ではないが居残っていることが多いのだ。
芳香も遅い時間まで勤めているので、平日は待ち合わせることなくふらっと薫樹の職場を通りがかっている。
「まだ、帰らないかもなあー」
時間は7時半だ。いつも8時までは会社に残っているようなので、期待せずに少しだけうろつく。
道路に小石が落ちているのを見つけた。思わず、芳香はポーンと蹴ろうとするが、小石にかすることなくシューズがスポッと足から抜け会社の入り口付近まで飛んでしまった。
「ああー、やっちゃたあー」
ケンケンと片足で跳びながらシューズを拾いに向かう。すると男の話す声が聞こえ始めた。
長身の男二人が玄関から話し合いながら出てきている。遠目にもわかる、一人は薫樹だ。
「あっ、薫樹さんだ。珍しいー」
嬉しくて駆け寄りたかったが、シューズを飛ばしてしまい、もう一人知らない人物がいることに芳香はためらい少しずつ近づいて行った。
薫樹よりも、もう少し背の高い男が「おや?」と芳香のシューズを拾う。
「あっ、まずいっ」
芳香は急いで駆け寄り二人に近づいた。
「あ、あの、すみません、それ」
声を掛けるより前に長身の男があろうことかシューズの匂いを嗅ぎだす。
「いっ!ちょっ!」
ひるんでいると男はシューズを薫樹に嗅ぐように促す。
「やっ、やだっ!」
男二人がうんうん頷きあっている。
たまらず芳香は「そ、それ私のです! 返してください!」と目の前に飛び出した。
「ああ、芳香。やっぱり君の靴か。こんな芳香をさせる足がまだ世の中にあるのかと思ってびっくりしていたところだ。ああ彼女は柏木芳香。僕のフィアンセです」
「いやあ、芳しい。素晴らしい香りだ。留学中によく食べたエポワスを思い出しますね」
「ああ、確かに。僕もよく食べた。やはり合わせるのは同郷のブルゴーニュ産のワインだろうか」
「ええ、でも日本酒も案外合うんですよ」
「ほう。今度その組み合わせで食べてみたいものだな」
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