ガーベラをかざして
「君と結婚するんだと思ってた」

そんな声が聞こえてきたのは、私がキッチンから戻ろうとしている時だった。ミネラルウォーターとコーヒーをトレイに乗せたまま、物陰から様子をうかがうと、笹ヶ谷さんと笑子さん、京さんが三人で話していた。

「え、でも睦月、あなたそんなこと一言も言わなかったじゃないの」

笑子さんが慌てたように言った。まさか息子から話を蒸し返してくるとは思っていなかったんだろう。

「おば様の仰る通りよ…、あんなに好きだって言ったし態度でも示したのに、睦月は断ってきたじゃない」

京さんは呆れたように言っている。それはそうだ。長年好きだと示し続けても、その度に拒絶されて、親にも引き離されたっていうのに、この期に及んでその台詞はどうなのか、と私でさえ思う。

「家のために政略結婚をするのはよくあることだろう。それに祖父同士が結婚させようと約束していたと聞いていたし」
「あれはお二人が暴走していただけじゃないの」
「それなんだが、話を聞いていてなるほどと思うこともあってーー成金の笹ヶ谷といまだにうちを見下す人たちは多い。そこまではいかなくても、結婚は許さないという人たちもいる。そこから結婚相手を探すより、京さんと結婚したほうがよっぽど安定した関係を築けるーーそう言っていたんだ」
「睦月、あなた…」
「結婚は当人同士だけの問題じゃない。家同士の問題でもある。それを祖父たちはよく考えていたんじゃないか?」
「…お父様やお母様はよく仰っていたわ。

『お前はお祖父様に結婚するよう言われているかもしれない、でもお前の意思で相手を選んでほしいし、結婚しない選択だってある。周りの言うことに流されるな』

…でもね、私が睦月を好きな気持ちは本当だったのよ?」
「京さん…」
「…そんなふうに思って結婚を考えていたなら、心外よ」

京さんの声が震えているのがわかる。怒りと悲しみ。その両方が痛いほど私にも伝わってきた。この人は、笹ヶ谷さんにとっては、京さんへの感情は“無”なんだ。好きとか嫌いとか、そういう次元じゃない。
何とも思ってはいないけど、祖父の言う通りだし、家のためなら別に結婚してもいいかーーそんなことを大好きな相手に思われていたなんて、どれだけショックだろうか。

「…菜乃花さんに会うまでは、そう思っていたよ」
「え」

この声は、私と京さん、どちらのものだったろう。

「菜乃花さんを一目見て、好きになって…結婚相手は馬鹿でなければいい、ぐらいにしか思ってなかったのが変わったんだ」
「そう…どう変わったの」
「私の相手は、彼女しかありえない」
「…」
「写真を見た時、意思の強そうな瞳が気になって…実際に会ってみたら、ひどく奥ゆかしくて、そこにも惹かれて」

そこで笹ヶ谷さんは飲みものを口に含んだ。あぁ、そうだ、飲みものを渡さないといけないんだった。でもこの状況に割り込む勇気はない。

「特に、好きな花について語っている時は本当に楽しそうで、こちらの気持ちも温かくなる。島を彼女にプレゼントしようとしたら断られてしまったけど、色んな花を教えてくれて、その笑顔が眩しすぎた…」
「睦月、あなたその時、すごい顔になっていたでしょう?」
「…なってた。思いっきり怖がらせてしまったし、もう駄目だと思った」
「気持ちが昂ぶるとすぐ怒ったような顔になるものね…睦月って」
「それで何度も見合い相手に逃げられていたからな…、今回もそうなると思った。でも違った。母さんと慰問に行った時のことを聞いて、人の気持ちに寄り添える人だと思ったし、このパーティーで用意した花だってそうだ」

私は思わず顔を隠して、その場でしゃがみこんでしまった。睦月さんの声だけが聞こえてくる。

「私と相談して決めたいと言ってくれたんだ。婚約発表の場だから、二人で協力したものを作りたいって」
「テーブルフラワーね…ダリアとリンドウがとても秋らしいし、上手い魅せ方だと思ったわ」
「ありがとう、京。後で菜乃花さんにも伝えてやってくれ」

トレイを持っている腕が痺れてきた。でも、もう少しだけ聞きたいと思ってしまった。だからもうちょっと踏ん張って待ってみようと思う。

「招待客のことを一番に考えて行動できる人なんだ。それだけじゃなくて、酔っぱらって情けない姿を見せても、彼女は態度を変えたりしなかった」
「…」
「一緒に生きていくなら、彼女のような人が良いと思った。協力して、良い家庭を築けるんじゃないかと、そう思ったんだ」
「…睦月、幸せなのね」
「ああ」
「おめでとうーーやっぱり、寂しいけど」

私は清隆さんと実父、津江崎ご夫妻が戻ってくるまで、長い間動けずにいた。もう腕の痺れを気にしている余裕はない。ただものすごい罪悪感だけが、私の肩を押さえて囁いていた。

ーーお前は、この何も知らない男を金のために騙しているんだ。
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