ガーベラをかざして
心情
ーーむーくん、かおこわいからやだ!


あれは確か私が幼稚園児だった頃の話だと記憶している。当時、好きな女の子と体操のペアを組みたくて誘った時のことだった。
あの時、私はいったい何と返したんだったか。ただもの凄いショックだったことを覚えてる。

それからは“自然な優しい笑顔”を目標に笑顔の研究をした。留学先でも欠かさずに調査し、あるいは実践や練習をくり返したが虚しい結果に終わった。むしろ悪化したような気さえする。
親からは「気にしなくていい、気にすると余計にひどくなる」と言われて意地になり、頬の筋肉を柔らかくするマッサージや口角の上げ方を調べたりした。満顔の笑みは難しいが、微笑みは浮かべられるようになった。交渉や商談の際、笑顔が作れないのは致命的なのは嫌でもわかっていたから、我ながら心底ホッとした。

京はそんな私の理解者で、ずっと好きだと言ってくれていた。その気持ちは紛れもなく本物だったと思う。祖父たちに言われてそれを真に受けたのだとしてもだ。
京の両親はそんな彼女を心配して留学やってしまった。これでもしまだ私を好きだと言うなら、自分たちも受けいれると言って。
正直、私は彼女の愛情に胡座をかいていた。この恐ろしい笑顔のせいで、あるいは“成り上がり”と見下されて、見合いが上手くいかなくても、彼女は私を好きでいてくれるし、留学に行ってもそれは変わらないと。だから、彼女が帰ってきたらそのまま結婚するんだろうーーそう、何となく考えていたのだ。

その考えは、見事にひっくり返された。

桜前線が発表された日だったと思う。母が私にお見合い写真を渡してきた。

「水流井のご息女ですって」
「水流井の? どういう風の吹きまわしだ?」
「家業が大変だそうよ」
「ああ、なるほど」

陰で笹ヶ谷を成金と嘲笑う家は決して少なくない。水流井もその一つだった。その成金にすがらないと呉服屋を経営できないとは、本気で進退に窮しているということか。
まぁ会うだけ会って適当にあしらい、呉服屋を買収するのもいいか。そう思いながら釣りがきを確認した。

美しい瞳がそこにあった。美しいと表現したが、こちらに挑むような鋭い光を宿していると思った。おおよそ令嬢とは思えない力強い眼光に、しばらくの間、目が離せなかった。
ボブカットの黒髪は卵型の顔を包み、清廉な空気を引きたてて好ましい。唇はふっくらしていて血色が良く、最低限の化粧しかしてないのだろうと察した。
会って話をしてみたい、そう思った。

それから“水流井 菜乃花”を徹底的に調べた。水流井の娘ではあるが、乳児の時分に園島の養子になったこと。養父母は愛情深く彼女を育てたこと。養父は早くに亡くなり、養母は具合を悪くし入院中であること。ーー治療費のために私との見合いを強要されていること。

部下の報告書に目を通しながら、あの力強い瞳は覚悟を決めたからか、と納得した。今度は水流井呉服店の内部調査を命じると、見合いの準備を進めた。場所や時間の指定はこちらの主導で進めさせてもらったが、水流井から遠回しな文句は言われなかった。腹の中で何を思っていたかは察するが、それを顔に出さずにこやかに接してくるのは、さすがは何百年と続く老舗の商売人といったところか。

そしてとうとう迎えた見合いの日。彼女は静々と深窓の令嬢然とした様子で水流井の後ろに佇んでいた。軽く挨拶していざ見合いが始まると、水流井は偽の経歴を自慢した。事前に打ち合わせをしていたのだろう、彼女は“ひどく内気”ということになっていた。水流井が代弁するように話し、自分は俯いて一言も発しなかった。彼女の声を早く聞いてみたくて、見合いでよくある「後は若い二人で…」の時間が待ち遠しかった。

「では、この後は若い人たちだけで…」

やっとその時間がやってきて、彼女は顔を初めてあげた。
俯いていた時も視線は感じていたが、真正面から見つめられると心臓に悪い。すぐ視線を外されてしまったが、“恥ずかしかりで奥ゆかしい令嬢”を演じているのだろうか。こう考えてはいけないのだろうが、拙くていじらしい。写真での印象とはまた違い、魅力的だ。
コーヒーが出されてからも沈黙は続く。陽炎のような湯気と落ち着く香り。穏やかな天気。こうした空気は嫌いではないが、さすがに何か話すべきだろう。

「一目惚れしたという話でしたが…私のどういうところを気に入ってくださったんですか?」

事前に打ち合わせしているだろう質問をすると、案の定、スラスラと答えが返ってきた。あくまで“引っ込み思案な令嬢”の域を出ない範囲で、だが。
しかし私は素の彼女が見たかった。

「私も貴女に一目惚れしましたので、嬉しく思います」

ちょっとした悪戯心を起こして、彼女にそう告げてみた。別に嘘ではない。見合い写真を見て好ましいと思ったのは事実だし、真実を知ってその覚悟や優しさに心根の美しさを感じたのだってそうだ。
だがそんなことを言われるとは思っていなかったんだろう。彼女の目は見開かれ、表情が固まったかと思うと俯いてしまった。必死で“令嬢らしい答え”を考えているんだろうと思ったら、もっと困らせたくなってしまった。

「ではすぐに、私の両親も呼び戻しましょう」

明らかに困惑している彼女を横目に、両親と水流井に連絡するよう指示を出した。長年我が家に勤めている家政婦は喜んで、速やかに三人を呼び戻してくれた。
水流井は目にわかるくらい安心した顔を見せ、早々に彼女を連れて帰ってしまった。両親からは「本当にいいのか」と何度も念をおされたが後悔はなかった。いや、やはりある。
人を困らせたいだなんて、幼児のうちに卒業すべき感情だ。これからは彼女にうんと優しくして本当に好きになってもらえるよう行動しなくては。

私はそう決意し、部下からの報告書に再び
目を通した。
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