ガーベラをかざして
それからは特に進展もなく時間だけが過ぎていった。
別に何もしなかったわけではない。呉服店に潜入させた部下からの報告を聞き、どうにか時間を作って菜乃花さんと食事をしたりデートをしたりして過ごした。仲を進展させる切っ掛けがなかったと表現すべきだったか。

しかし、呉服店のグレーなあるいはブラックな情報は面白いくらい入ってきて、資金を提供するだけでなく、人員も貸して内部から掌握するのは短期間で終わりそうだなとほくそ笑んだ。
従業員へのパワハラ、セクハラ。低下するサービスの質。上層部にいる親族たちは豪遊三昧ときた。…正直に言って、よく今まで潰れなかったなと思う。まぁそこは偉大な先祖の遺産を食いつぶしているんだろう。よくある話だ。
こんな一族の中で育てられずにすんだ彼女は本当に運がよかったとしか言えない。不運だったのは、居場所を知られてしまったことだろう。だがそのおかげで私は彼女と会えたのだから皮肉なものだ。

今日はそんなことを考えず菜乃花さんと夕食をいただく予定ーーーだったのだが、仕事が立て込んで遅刻してしまった。約束から一時間も経ってしまっている。怒って帰るような人ではないと思うが、不愉快にはなっているだろう。急がなくては。
早足で店内を進む私の顔は相当ひどいものになっているんだろう。客も従業員も避けて視線を逸らした。焦ったり感情が昂ったりするといつもそうだ。泣く子も黙る悪鬼のような表情になって相手を怖がらせてしまう。菜乃花さんに会う前にせめて無表情にならないと。

「美しい夜景をじっくり観賞できましたし、どうぞ顔をおあげになって?」

菜乃花さんはそう言って謝罪を快く受け入れてくれた。口調はお淑やかだが目は泳ぎ、別のテーブルに運ばれる料理を見ていた。一時間も待たされたならそれはそうなる。急いで料理を出してもらうよう注文すると、早速とばかりに前菜が出された。お腹が空いているだろうに、頑張って小さな口で食べる彼女への罪悪感が増した。

「あの」
「っ、はい」
「遅刻してしまったお詫びに、埋め合わせをさせてほしいのですが」
「まぁ、本当に気にしてなどいませんのよ」
「…お優しいんですね、菜乃花さんは」
「睦月さんはお忙しい方なんですし、今日は来てくださっただけで嬉しく思っておりますもの」

ああ、やはり菜乃花さんに負担をかけてしまっている。
そう思うが早いか、菜乃花さんの顔が引きつって露骨に話題を変えてきた。

「…あの、それにしても、ここは夜景だけでなくて、花も素敵ですね。このテーブルのブリザーブドフラワーなんて小さくても華やかでーー」
「菜乃花さんは花がお好きなんですね」

私はその言葉を聞き、せっかく振ってくれた話題に乗ってみた。空気を変えてくれようとした彼女に、少しでも報いようと思ったのだ。

「ええ、睦月さんは?」
「…正直、分からないんです」
「分からない、と仰いますと?」
「薔薇とかチューリップのような花なら分かるんですが、全く詳しくなくて」

穏やかな会話を交わしながら、私はある計画を立てていた。



それから二週間後、私たちは小島を散策していた。

ここは笹ヶ谷家が所有する島で、年がら年中色とりどりの花々を楽しめるようになっている。大きくはない島で、島全体から見ると花畑は小さいものだ。それでも定期的に庭師だの職人だのを送って手入れさせているので、いつ来ても楽しめるようになっている。
今日はこの島を彼女に贈ろうと、彼女を連れてきたのだ。

「あの、睦月さん、この島は一体…?」

菜乃花さんがおずおずと話しかけてきた。麦わら帽子を深く被っているから顔は見えない。少しだけ残念だったが致し方ない。

「私が所有している島です。菜乃花さんに差し上げようと思って」
「こんな美しい島を独り占めしてしまったら、罰が当たりそうですわ」
「…申し訳ない。初めて貴女が好きなものを知って、浮かれてしまった」

体よく断られてしまったが、花が好きなのは事実だろうし、海外のフラワーアレンジメント大会に連れていったほうが喜ぶだろうかと考えてみた。元々は一般家庭で育った人だ。いきなり島を贈られても反応に困るだろう。遅刻のお詫びのつもりが失敗したなぁ…。

「ええ、花は本当に好きで…、もしこのような立場でなければ、花屋になりたいぐらいです」
「ピッタリですね」

水流井の面倒に巻き込まれなければ、本当に彼女はそうなっていただろう。その様子がありありと浮かんできて、申し訳なさで足取りが重くなった。
彼女は私のそんな葛藤など知らないまま、楽しそうにこの島に植えられている花々について説明してくれた。

「睦月さん、ケイトウが見事ですよ!」
「ケイトウ、というんですか」
「ええ、ニワトリのトサカに似ていると言われていてーー」

この他にもヒマワリやトケイソウ、タチアオイなど、夏に見られる花を教えてくれた。生き生きとした口調の彼女は、とても“内気な令嬢”には見えない。ただただ無邪気に好きなものについて語る愛らしい女の子だ。そう、私が見たかったのは、この菜乃花さんだ。
取り繕って我慢して大人しくしている彼女と一緒になりたいんじゃない。素の彼女をさらけ出してもらいたい。だが治療費を盾にされている以上それは難しい。だからこそ水流井を早急になんとかしてーーー。

悶々と悩んでいて気づかなかったが、麦わら帽子を風で飛ばされたらしい菜乃花さんが突っ立ってこちらを凝視していた。目は見開かれ、顔からは血の気が引いている。

ーーしまった!

「…」
「…」

私は麦わら帽子を取ろうと菜乃花さんの後ろにある木に近づいた。二、三歩もいかないうちに彼女は腰を抜かして顔を伏せてしまった。怖がらせるのは不本意だが、こればかりはどうしようもない。急いで取って菜乃花さんの元に戻り、さらさらした黒髪に被せた。

「…あの、ありがとう、ございます」
「どういたしまして」

震える声でお礼を言われたが、これではもうデートどころではない。
余計に怯えさせるのを承知で、腰を抜かした彼女を横抱きにする。

「ひっ…」
「大丈夫です、ジェット機まで運ぶだけですから」

菜乃花さんは俯いて縮こまったままだ。この間のレストランといい、また萎縮させてしまった。
私は唇を噛んだ。楽しかった気持ちはこうも簡単に吹き飛んでしまう。…この表情筋のせいで。

喜びなり悲しみなり、興奮すると顔が怖くなるのはどうしても直らなかった。愛嬌のある顔つきに、なんて贅沢はいわないから、せめて人並みの表情筋が欲しかった。
そうであれば、今頃はもっと仲良くなれていただろうに。
ないものねだりとは理解していても、そう思わずにはいられなかった。
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