誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「——ひでーなぁ」

 ぼんやりとしゃがんでいると、どこからか声が降ってきた。
 無気力のまま、何も考えずにそっと顔を上げる。まつ毛に乗った水滴ごしに、一人の男の子の姿が見えた。
 無造作に散らした金色の髪。
 人を見下すために存在しているかのような、釣り上がった目。
 開け放たれたブレザーの向こうには、ピンク色のTシャツが覗いている。私の高校とは違う制服だけれど、おそらく校則(ルール)通りに制服を着ようなんて一度も思ったことがないというような風貌。
 今までの人生で関わったことのないようなタイプの人だった。
 一言で言うと、不良。
 不良の定義はわからないけれど、頭の中で想像する不良、そのもの。
 二重なのにキツく見える彼の目を、じっと見つめ返した。
 なに、この人。
 なんで私に話しかけてくるの?

「……」

 返事もせず、私はただ無言でしゃがんでいた。
 別に、彼が怖くて言葉が出てこなかったわけじゃない。
 コーラを浴びせられたことがショックで頭が動かなかったわけでもない。
 単に口を開くのが億劫だっただけだ。
 彼はそんな私の態度を気にもせず、一歩近づくと顔をしかめた。

「なにそれ、コーラ? あーあ、こりゃなかなか臭い取れねーぞ」

 男の子が足元の黒い水溜まりをローファーでなぞる。
 アスファルトのホームに短い線が伸びて、それをめざとく見つけた蟻がいそいそと近寄ってきた。

「……見てたんですか」
「そ。反対のホームから。お前、おとといもやられてただろ。ダッサ」

 言われて、思わず薄く口を開けてしまった。
 ダサい、という初対面の人間に言うべきではない暴言よりも、引っかかったのはそのひとつ前の言葉。
 おととい……。
 おとといのも、見られてたんだ。
 この駅は二つの沿線が通っている大きめの駅で、私のいるホームの向こう岸にもホームがある。電車から降りると誰もが一目散に改札へと向かう朝、向かいのホームからは私の〝惨劇〟がよく見えたことだろう。
 でも、他人がペットボトルの液体をかけられたからって、わざわざ話しかけてくるだろうか。
 自分が乗るはずだった電車だってあったはずなのに、それを見送ってまで。いちいち向かいのホームまでやってくるなんて。

「なんなの、あいつら。同じ学校のヤツなんだろ、同じ制服だった。いじめってやつ?」
「……さぁ……」
「アホだなー、やり返せばいいのに」

 また、暴言。
 二回もいいように言われて、怒る気はなかったのに少しだけ体に電気が走った。
 ……何も知らないから、そうやって好き勝手言えるんだ。
 いじめなんてされたことのない、学校のヒエラルキーの頂点にいる人たち。怖いものなんて何もない、十代にして人生を遊び尽くしている人たち。
 きっとこういう人が、学生が自殺したなんてニュースを見つけるたびに条件反射で「死ぬ前にやれることたくさんあっただろ」なんてSNSに書き込むのだろう。
 他にも、「誰かに助けてもらえばよかったのに」とか、「何も死ななくてもいいんじゃないの」とか。そしてその一秒後にはニュースのことなんか忘れて、友達にチャットを送りまくって集まった人たちと一緒にオンラインゲームに勤しむんだ。
 彼らは何も知らない。
 何にもわかってない。
 いじめをチクったりでもしたら、それこそ命も危ういと感じるくらいに報復されること、とか。
 先生たちはいじめの対応に時間を割くよりも、残業を少しでも減らして早く帰ることに必死なこと、とか。
 ……どれだけ嫌がらせを受けても、たった一人で私を育ててくれた母親に心配をかけたくなくて黙ってしまう人間がいること、とか。
 当事者になったことなんてないから、その奥にどんな葛藤があるのかわからない。想像すらできない。
 檻の外で正論だけを垂れ流す、人間の皮をかぶった悪魔たち。
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