誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「……僕、彼女に捨てられて……。ずっとここで待ってるんですよね。戻ってこないって、わかってるけど」

 前にも聞いたけれど、彼の二度目の告白を私は静かに受け止めた。
 やっぱり人というのは、誰かに感情を吐露したいものなのかもしれない。
 閉じ込めても閉じ込めても溢れ出てしまう。
 なかったことしようとしても、それは不可能で。
 彼は私に会うたびに、同じ話を繰り返すのだろうか。

「この池……願いが叶えてくれる神さまがいるっていいますから。彼女さんに気持ち、届くといいんですけど」
「どうかなぁ……。ここにはよく来るんですけど、実際、願いが叶う気はしないんですよね……」

 手すりに両腕を乗せ、彼がそこに顔を(うず)めた。
 そして。
 涙でくぐもった声が、闇に響いた。

「……全部忘れられたら、楽なのに……」

 どきりとして、俯く彼を見つめてしまった。
 すぐそこにいるのに、今にも闇に溶けて消えてしまいそうな細い体。
 苦労して作ったトランプタワーのように、触れたらバラバラと崩れてしまいそう。
 彼の言葉を頭の中で反芻する。
 でも、何と言えばいいのかわからない。

「それは……」

 さらさらと、水が蠢く。
 ざわざわと、木々が揺れる。
 ……そうなのかな。
 私は、みんなに忘れられる。だから私も、みんなのことを忘れられたら。
 幸せ……なのかな。
 小学校の頃の友達。
 近所に住む、よく話しかけられていたおじさんやおばさん。
 こんな私に関わろうとしてくれた佐倉さん。
 塚本先生。
 お母さん。
 そして……。

 不意に涙が溢れて、手すりに置いた腕に落ちた。
 どうしてだろう。
 なんで、こんなに悲しいんだろう。

〝悲しそうな顔してた〟
〝お前も、忘れられたくない人はたくさんいるんじゃねーの〟

 もし、植村くんが私のことを忘れて。
 私も植村くんのことを忘れられたら。それは、幸せなのだろうか。
 毎朝あくびをしながらホームの縁に立つ植村くん。
 私と目が合ってもすぐに逸らされて、私もそれを気にすることもない。
 休日に会っていた理由、話した内容もすべて忘れて、私たちの関係は無に帰る。
 そうしたら、私は自分が忘れられたことに落ち込むこともなくなって……。

「全部忘れられたら……きっと、楽……ですね」

 落ちる涙をそのままに、言葉を返した。
 ……なのに。

 たとえ、全部忘れられたとしても……。

 私は、忘れたくない。

 そう思う、自分がいた。


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