誰もいないこの世界で、君だけがここにいた



 その日、教室に入るとなぜか多田さんが私に絡んでくることはなかった。
 昨日植村くんと一緒にいるところを見られて、ひと悶着あった翌日なのに。
 植村くんのことをからかわれたり、みんなに言いふらしては私の方をニヤニヤ見てくると思っていたのに。
 今のところ、想像していたどのパターンも起きている気配はない。
 どういうことだろう。
 自分の席に向かいながら、多田さんを見てみる。でも、多田さんはいつも通り友達と楽しく話しているだけで私の方には見向きもしない。
 もしかして、記憶を失ってる……?
 いや、そんなことない。多田さんが昨日のことを忘れるとしたら、今夜の二十四時なんだから。
 多田さんが、昨日のことを覚えていたうえで私に何もしてこないとしたら。
 本当に植村くんの言葉が効いていて、私に手を出さなくなったのだろうか?
 多田さんが、そんな簡単に人の言うことを聞くとは思えない。でも私がいなくなったあと、植村くんが多田さんたちをうまく説き伏せてくれたのなら、その可能性もないこともないかもしれない。
 だとしたら、うれしいはうれしいけれど……。
 わけがわからず、ひとまず席に座った。
 その後も、多田さんに話しかけられることはなかった。
 平和な日常。相変わらず私に寄ってくるクラスメイトは皆無だけれど、ただ嫌がらせがないというだけで幸せを感じる。
 何事もなく六時間目まで授業を終え、ホームルームも終わり外へ出ると、はじめて私から植村くんに電話をかけた。
 ワンコールで出る植村くん。
 どれだけ暇なんだろう、なんて失礼なことを考えてしまう。

「今日、多田さんから何もされなかったよ」

 すぐさま今日のことを報告した。
 朝からずっと心配してくれたから、報告する義務があると思った。

「そう。そりゃよかった」
「……植村くんが強く言ってくれたから、なの?」
「かもなぁ。どうせ言っても無駄だと思ったけど、ちゃんと話が通じてたならよかったわ」
「ありがとう。……いつも、植村くんにまかせてばかりで、ごめん」

 素直な言葉が出てくる。
 同時に泣きそうになって、スピーカーに音が入らないよう離れて鼻をすすった。

 これで、私の未来は変わるのかもしれない。
 このままいじめがなくなって。いつか呪いも解くことができたら。
 私は、私に戻れるんだ。
 小学生ぶりの、元の私に。
 休日には気軽に外に出て、行きたいところに行ける、私に。
 友達だってまたできるかもしれない。
 お母さんから記憶がなくなるんじゃないかと、毎日不安に駆られることもなくなって。心の底から笑える、そんな日々が戻ってくる。
 みんなが当たり前に過ごしている日常を、私も過ごせるようになるんだ。
 うれしい。
 待ち遠しい。
 そんな日が、早く来るといいのに……。

 ——でも、あの日曜日から六日が経った、ある日。
 その願いは早くも崩れ去った。
 六時間目が終わった後、急にすべての記憶を取り戻したかのように、多田さんが私の机に近寄ってきたのだ。
 それだけのことで、この先の人生が真っ暗になることを約束されたような気持ちになる。いや、それは確定的だった。
 多田さんの笑顔が他の生徒に向けるものとは違う、ヒトのお面をかぶった何かだったから。

「笠井さーん」

 不気味な甘い声。
 数日泳がされたせいで、何を言われるのか恐怖が倍増している。
 多田さんはわざとらしく眉を曇らせているものの、口元の笑みは我慢しきれないように溢れていた。

「カレシ、大変なことになっちゃったみたいだねぇ。まぁしょうがないよね、あんなことしちゃったんだから」

 持っていたスマホを見せられる。
 裏側にハートのチェーンがついた、最新の、大きなスマホ。
 その大きな画面には誰かとのチャットのやり取りが写っていて、それを見て息を呑んだ。
 たった今受信したばかりらしい、多田さんの友達からのメッセージ。
 そこに、衝撃的な言葉が並んでいたからだ。

〝植村陸なら、よく知らないけど月曜から自宅待機になってて、今は謹慎になってるよ〟


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