栞の恋(リメイク版)
『栞さん…と言ったかな』
『あ、はい』

不意にマスターに話しかけられ、反射的に顔を上げた。

『私は晴樹君を学生の頃から知っていてね、ここだけの話、彼がこうして”自ら”女性をこの店に連れてきたのは君が初めてなんだ』
『ちょっと、マスター』

何を言い出すのかと晴樹さんが慌てて窘めるも、マスターの方は気にもせず、悠々とその先を続ける。

『今敢えて、”自ら”と言ったのは、晴樹君自身が連れてくることは無くとも、彼を追って来たのか、調べたのか、晴樹君の気を引こうとこの店までやってくる女性は何人かいてね』
『それは学生の頃の話でしょう』

即座に彼が否定するも、マスターは何かを思い出すように『はて…』と首をひねり、

『つい先日も、君の翻訳した作品が好きだって、会いに来た女性がいたような…』
『あれは単に作品のファンです』

何の感情も無いとでも言うように、単調に答える晴樹さんに、マスターが苦笑いする。

『栞さん、こんな風に彼は男女の色恋沙汰には全く興味がない。わざわざ会いに来た彼女達に対しても、取り立てて愛想もなく…あぁそうだ、ああいうのを今は”塩対応”というのでしょう?』
『マスター、栞の前で人聞きの悪いことを言わないで下さいよ』
『おや、違ったかな?それはすまないことをした』

マスターは謝罪の言葉を口にしながらも、特段気に病む様子も無く、『君が軟派な男じゃないことを伝えたかっただけなんだが』と、笑う。

そこで店の入口のドアが開き、新しい客が入ってきた。

マスターは直ぐに『いらっしゃいませ』と反応するも、そちらに向かう前に一瞬身を屈め、持っていた木製の丸い盆で口元を隠すと、私の耳元でそっと囁く。


”心配はご無用。どうやら晴樹君にはあなたしか見えていないらしい”


その言葉に思わず顔を赤らめると、目の前の晴樹さんが怪訝な顔をする。

『では、私はこれで。お二人とも、ごゆっくり』

マスターはそう言い残すと、丁寧に会釈をしてから、今来た客の対応に向かう。
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