面倒な恋人
戸惑い



まだ夜が明けたばかり。
大きく息を吸い込んだら、朝の空気に少し湿り気を感じた。

そういえば、夜のうちに小雨が降るって気象予報士がテレビで言ってた気がする。

ほんの少しの雨だったのか、歩道に水たまりは見あたらなかった。

早朝の散歩を楽しんでいる人やジョギングしている人とすれ違うが、こんな時間にパンプスの靴音を響かせながら足早に歩いている姿はちょっと目立っているかもしれない。

(なんでこんなことに……)

昨夜のことを思い出すと、恥ずかしさで頬が熱くなる。
苛立つ気持ちをどうすればいいのかわからなくてひたすら歩き続けたが、自己嫌悪でますます気分が悪くなってきた。

唯仁(ゆいと)……)

彼の固い筋肉に触れた感覚までが蘇ってくる。

(どうかしてた、私)

ふたりの間に幼なじみの情はあっても、男女の愛情などなかったはずだ。

罪悪感から呻き声が洩れそうになって、キュッと唇を噛んだ。

(もう、あの頃には戻れない)

朝から晩まで楽しく遊んで、お腹いっぱいご飯を食べて、柔らかな布団にくるまれて眠った子どもの頃。
なにも考えなくてもよかった、幸せだったあの日々。そこにはいつも唯仁がいた。

(大切な思い出だったのに……)

唯仁と一夜を過ごしてしまったことで、私はなによりも大切だった幼い頃の思い出を、自分の手で壊してしまったのだ。




***




私、奥野(おくの)明凛と河村(かわむら)唯仁は同い年で幼なじみ。

四歳年上の兄の紘成(こうせい)、唯仁のお兄さんの慎也(しんや)さんの四人は、幼なじみというより兄妹みたいな関係だ。

というのも、幼い頃の私たちは河村家のお屋敷で一緒に育ってきたからだ。

河村家は代々政財界の重鎮を輩出した古い家柄だ。
そのお屋敷はがっちりとした洋館で、周囲には自然に満ちたイギリス式のお庭があった。

慎也さんたちのお父様、河村圭一郎(けいいちろう)さんが現在の当主にあたるのだが、有名な指揮者だけに各国に招かれることが多い。
お母様の美琴(みこと)さんもオペラ歌手として活躍していて、とてもすべての管理まで手が回らない。

だから圭一郎おじさんの従兄弟にあたる私の父の栄治(えいじ)と母の章子(あきこ)が、屋敷の維持や財産の管理などの一切を任されていた。
もちろん親戚とはいえ、雇い主と使用人という関係になる。

遊びたい盛りの子どもには、親たちの立場の違いなどわかるはずがない。

もの心ついた頃には、いつもそばにいた。
朝から晩まで、遊ぶときも食事の時間も、泣いたり笑ったりしながら過ごしてきたのだ。

(あの日までは……)

ある日を境に、私の中で幼なじみとの関係は大きく変化してしまった。
それでも幼い頃の楽しい日々は、大切な思い出に変わりはなかった。






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