面倒な恋人


「は?」

突然の申し出に、意味が飲み込めなかった。

「フリって?」
「実は……」

大学院に進んで作曲の勉強を続けている慎也さんは、親から干渉されて息苦しいくらいだという。
私から見れば恵まれた環境なのにと思うのだけど、慎也さんは両親から離れたいらしい。

「母から離れてしばらく自由になりたいんだ。その手助けをしてくれないか?」

自分の才能と向き合う時間が欲しいからと頼まれてしまう。

「手助けって、恋人のフリをすることが? そんな噓はすぐにバレますよ」

「大丈夫だよ。明凛ちゃんにしか頼めないんだ」

慎也さんは、さっきの私の言葉を聞いた美琴さんの喜びようを見て思いついたらしい。

「私じゃあ慎也さんに釣り合いません」
「なに言ってんの。明凛ちゃんは小さい頃から母のお気に入りだし、可愛いじゃない」

私が言いたいのは『奥村家の養女』という立場のことなのだが、慎也さんは気にもとめていない。

「結婚相手じゃないんだ。母たちが恋愛至上主義なのは知っているだろ」
「ええ」

河村家のお嫁さんになる人には家柄が求められるけれど、恋愛は別らしい。
河村夫妻は養女の私を可愛がってくれているし、『音楽家は恋しないと花開かない』という考えの持ち主だ。

「それなら本物の恋人の方がいいでしょ? お付き合いしている方はいないんですか?」
「特に誰とも付き合っていないよ。だから明凛ちゃんに頼んでるんじゃないか」

いつもは穏やかな慎也さんだけど、なんだか熱に浮かされているようだ。

「僕は留学しようと思っている」
「留学? ですか?」

「ただ、僕がこの家を出てしまったら母がどうなるか心配なんだ」

美琴さんが慎也さんの才能にものすごく期待しているのは、誰もが知っていることだ。
もし慎也さんがこの家を出たら、美琴さんはどうなるだろう。

「でも、慎也さんが作曲の勉強で留学するなら美琴さんは喜ぶんじゃ……」
「それは絶対にないと思う」

慎也さんは、美琴さんが精神的なダメージを受けるはずだと断言する。

「それなら、無理に恋人でなくてもいいのでは?」
「母のそばにしょっちゅういるなら、恋人ってことにしておいた方が世間の目も誤魔化せるしね」

美琴さんが落ち着くまでの間だけ、支えて欲しいという。

「それに明凛ちゃんは誰とも恋する気がないんでしょ」
「ど、どうしてそんなこと?」

「君を見てたらわかるよ。僕の友達からの誘いをいつだって断ってたしね」

私は慎也さんから何度か友だちを紹介しようと声をかけられていたが、全部断っていたのだ。

「大学生になってもおしゃれひとつしないし、デートしてるふうでもない」
「そんなことまで……」

幼い頃からずっと一緒だったから、気が付いてしまったと言われたら反論できなかった。

「幼なじみのよしみで、母の近くにいて面倒をみてやってくれないかな」
「それは……」

「落ち着くまでの間だけでいいから」

私には断る理由が思い浮かばなかった。

「大学が忙しいので、あまり美琴さんのご希望に添えないかもしれませんが」
「助かるよ。母の様子を見て、恋人としての関係は自然に終わらせるようにするからね」

上手くいくかなと少し不安に思ったけど、慎也さんに任せておけば大丈夫だろうと簡単に考えてしまった。

「わかりました」
「ありがとう! そのお礼といってはおかしいけど、君も僕を利用して」
「利用?」

慎也さんは安心したのか、私にも提案を持ちかけてくる。

「恋人がいるって言っとけば、飲み会なんかに誘われても断れるし便利だろ」
「ああ、確かに」
「僕なら虫よけくらいにはなれるはずだし、君のお父さんも助かるよ。近ごろ母の浪費癖に頭を抱えていたからね。明凛ちゃんと付き合ってることにしたら、母にあれこれ言いやすくなると思うよ」

父の仕事のことまで言われると、もう後には引けなかった。

「わかりました。よろしくお願いします」

「こちらこそ。力強い共犯者だ」

ふたりで『恋人のフリ』をするという約束を結んだ。もちろん、誰にも事情を打ち明けないというのも条件のひとつだ。

「留学したら遠距離になるわけだから、しばらくして『自然消滅した』といえばおかしくないだろう」
「そうですね」

周囲に嘘をつくのは申し訳ないが(恋なんてしない)と決めている私には、とても都合のいい約束に思えた。


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