甘い災厄
夕飯の時間、予約したお店でご飯を食べていると、コウカさんに出会ったりもした。
「あなたたちって、日に日に深刻なバカップルになっていくわね」
と呆れた目をしていた。彼女はたまに、羽を伸ばして、お店でご飯を食べるらしい。
「ま。近所だからね、あの館の」
「そういえばそうか……その辺にあるのか」
ぼくらは向かい合って座った席で、二人とも、ハンバーグとポタージュのセットを食べた。
真横の席に居たのが、コウカさんだった。
上品な赤いスカートを身につけていて大人びて見える。
ぼくの膝の絆創膏を見ながら「あら、どうしたの」と聞いてきたので、聞かなかったことにして、箸をハンバーグに刺して、小さくする。
「さっきのちゅーで、夏々都がふらついたので」
まつりが横からいらない説明を始めて、体温が一気に上昇する。にらんでみるが、効果はないらしい。
「ね?」
ね?
と、羞恥心がぼくとは違う場所についてるまつりに首を傾げられて、項垂れる。言えるか。
「あら、夏々都くんはついにまつりんにだけはそこまで心を許しているの?」
ぼくは黙々と、食事をする。
ああ、もう恥ずかしい……食事中は静かに食べましょう。もぐもぐ。
「うふふ、他の人には、ぜーんぜん興味ないみたいだよ。せっかくバレンタインにチョコをくれた子とかも、見向きもしなくてさぁ、あれは少し哀れだけどさ。
まつりにだけは……うふふ」
「余計な話をすると、お前のぶんのデザートはぼくが食べる」
「あら。私にも、いろいろとしてくれるわよ?」
コウカさんがまつりに、楽しそうに笑う。
「えっ、嘘、ちょっとさみしいー」
「『まつりがコスプレばかりさせる』とか、あなたの話もするし」
「あ、あああ……コウカさん」
「ああ、ごめんごめん。でも、たまに遊びに来てくれるわ。ね?」
「うん」
まつりとは違う意味で落ち着く。なんというんだろう、なんだか話をしたくなる。ぼくや、まつりのことを、真剣に聞いてくれるからだろうか。
「まつりんの愛がしつこくなったら、いつでもうちに来ていいのよ?」
「はい」
頷くと、可愛いわねと頭を撫でられた。
「…………ん」
席に近寄って、黙って撫でられていると、まつりに引き剥がされる。
「食事中に席を立ったらだめだよ」
「ごめん、なさい」
しゅん、としているうちにまつりは食事を終えていた。
「もう食べない?」
「……食べる、けど」
注意されてしまった。
家で食べるときは言われないから、気づかなかったが、気を付けないと。
「落ち着かなかった?」
確かに隣にコウカさんもいるし、まつりもいるし、なんだかそわそわする。
「まつり」
「ん?」
「寂、しい」
「いつもより長旅だったもんね……ホテルに帰ったら二人きりだからね」
「ここ……寂しい、出たい」
「慣れない場所だと、甘えんぼさんになる夏々都くんも可愛い」
胸が苦しくて、体がかたかたと震えた。
せっかくお金を払ったから食べきらなくては、と思うが、少し、ここの料理は……美味しいけどボリューミーで、食べきれるかなと考えたら、食欲が出ない。
でも。
食べなくては。
『お行儀が悪い』
そう言って、責めるんじゃないだろうか。
だけど、なかなか食べられない。考えれば考えるほど、怖くなってきて、食べにくい。
『好き嫌いしないの、せっかく、連れてきたのに』
そう言って、怒られるかもしれない。
やだ。
やだな。
「……」
目が潤んでくる。
家と違って無闇に逃げ出せない。まつりが居なくなったら、ぼくは、どうすればいいのだろう。
外食自体、あまり得意じゃない。
食べるだけなのに、なんだか惨めになってくる。お金、払ったのに、食べきれなかったら。
「ななとー?」
まつりが、不思議そうにぼくの顔をのぞきこんで、ぎょっとしたような顔になった。
「あ、お腹いっぱいなら、いいんだよ。まつりが食べてあげようかな?」
必死に頷く。
よかった、食事から解放された。
「ごめんね、きみがまつり以外に撫でられてるからなんか、気になっちゃって。つい、当たっちゃった」
「……?」
ぼくのぶんの食事を、あっさり平らげながら、まつりが苦笑いする。
当たった? 何かあっただろうか。
「ああ、もう、車呼んで帰ろうかな。歩く時間がもったいない気さえする」
「なにに苛立ってんだよ?」
「もー。きみが鈍いからだよ」
「まつり」
「ん?」
「今日は、ありがとう」
「どした、急に」
「言いたくなった」
「そっか。ななともいつも、頑張ってくれてるから、まつりも、感謝してるんだよ?」
まつりが笑う。
それだけで、嬉しい。
食事を終えて席を立ってからも、しばらくそいつに貼り付くように歩いていたら、可愛いねと言われた。
「そんなに寂しかった?」
「……うん」
「でも、滑り台は楽しかったでしょ」
「うん。高校生になってまでやったことがないのは、少し、気まずいかなと、思ってたけど、案外、小さい子じゃない人も居た」
「ふふふ、大人でも、やってる人は居るよ。大丈夫」
また遊びたいなと思う。今度は、久しぶりにブランコがいい。
外は大分暗くなっていた。
コウカさんと別れて帰り道を歩いていると、「あ、お土産!」と声がして、ぼくは地面に突き飛ばされた。
手のひらを擦りむいてしまったが、まあたいしたことない。
気がついたら派手な女の人と、同じような三人がまつりを囲んでいた。
あぁナンパか。
「私もこの水族館好きなんですー!」
「そうですか」
まつりが、しらっとした声を出す。もう少し愛想をよくしろよ、と思いながら、よっ、と立ち上がる。
「今から遊びに行きませんかー?」
ぼくはめんどくさくてその場から立ち去ろうと背を向ける。
「あの子と遊んでる」
まつりがぼくのことを言うが、彼女らは引き下がらない。
「釣り合わないですよぉ」
「そうそう」
まつりは、心理状態が複雑だから釣り合う人間の方がほとんどいないよ、と思う。
あいつが会話のレベルを下げて、ペースに合わせているからそう見えてるだけで素のレベルでの会話を理解できるのは、ぼくと、まつりの身内、コウカさんくらい。
「遊んで来いよ」
ぼくが囁く。
しかしまつりは、ふい、と背を向けると「夏々都、いこ」と言って歩き出した。慌てて後を追う。
「まって! その子も一緒でいいから!」
声がする。
『も?』
まつりは無視して歩く……途中で、何を思ったのか、ぼくの右手をとり、擦りむいたか確認した。そして、大丈夫? と聞かれて頷く。
「あらごめんなさい、うっかり当たっちゃったかしら」
「ごめんねぇ」
女の子たちに謝られ、ぼくはたじたじになりながら、あ、いえ……大丈夫です、と必死に笑う。
なんだいい子たちじゃないか。
「うっかり?」
まつりが、急に低い声を出した。
ぼくが、くいくいと上着の袖を引くと、ため息を吐いてから、その場から立ち去ってくれた。
「なんで、怒ってるんだ?」
「小さい頃から、まつりに注意を向けて欲しいだとか、そんな理由で周りのひとがひどいことをされたりしてさ」
「ふうん……」
「向けてないって時点で望みが、無いんだから、迷惑行為だよ」
「でもぼくは別に。偶然だろ? ついうっかり当たったんだよ」
「そのわりには、きみを払い除けるみたいに、指先にしっかり力が入ってた。謝ればいいみたいな感じも気にくわない」
「……え、で、でも」
「この話はおしまい。意識的にでも許さないとずっと許せなくなりそうだからね、おわりおわり」
「そこまでのことか?」
ぼくはよくわからなかったけれど、ぼくが、まつりと同じような立場だったら、そうまでされたら意地でも付いて行きたくなくなりそうな気もする。
どんな人間かくらいはその時点でわかってしまうから、怖い人だな、としか思わないだろう。
でも。
ぼくがちょっとかすったくらいだし、身内だって。こんなのたいしたことじゃ――
「あぁ。まったく、道路に出てひかれかけでもしたら!」
まつりは、そうは思わないみたい。
不思議だ。けれど少し嬉しい。
「大丈夫だったよ。ちょっとかすっただけ」
「ごめん」
「んーん、ありがとう」
抱きよせられたので、そのまましばらく固まっていた。心配してくれたのだろうか。
まつりのなかの、大事な存在に、なってる?
なら、いいな。
「あ。夏々都、あっちにケーキ屋さんあるよ」
やがてまつりが言う。楽しそうに。
だから切り替えることにした。
それからしばらく散歩したり、お土産を買ったりしてから、部屋に戻ると早速パジャマを着せられる。
LLだが小さめなのだろう。少しゆるいくらいでそんなにぶかぶかでは無い。
今着ているのは、水色のホオジロザメくん。
ふんわりした生地はさわり心地が良い。ベッドの上でごろろんと転げているぼくをまつりが楽しそうに見つめている。
「買ってよかったぁ」
「そう?」
「かわいい、すごくかわいい……」
まつりが幸せで何よりだ。うんうんと頷いて、それから膝を抱えて座った。きゃー、とまつりがまた勝手に騒ぐ。うるさい。
「あぁ食べちゃいたい」
「そう?」
ベッドの縁にやってきて、楽しげにするそいつは可愛い。今日は、本当にテンションの高い、平和な旅行。
フードをかぶったまま、そいつを見上げる。安心、する。
この部屋にはぼくとまつりしかいない。
ふいに、いろんなことが甦ってきた。
二人で暮らした僅かな時間のこと。
辛かったことも悲しみも忘れることなんて出来ない。
『あなたは何が望みなの』
昔、ぼくを助けてくれた彼女の言葉を思い出すたびに、悲しくなる。
何も要らないと言っているときに限って、逆に欲張ったように言われるのはなぜなのだろう。
そんなに、何かが無ければ満たされない人、ばかりなのだろうか。
ぼくは、ただ。
「まつり」
「んー?」
「抱き締めても、いいよ」
ぎゅう、と、身体に重み。目を閉じながら、あいつは、ちゃんとそばに居るのだと、そう思う。
こいつにならこのまま殺されても、ぼくは怖くない。
もそもそと、服の上から奇妙な手つきを感じて、手刀をふりおろす。
「にゃっ!?」
「こら、触れとは言ってない」
「さわるー」
「ひっ、宣言するな、ばか……」
ベッドの上で、しばらくじゃれていると、ぼくの携帯電話が鳴った。
「はい」
机に手を伸ばして通話ボタンを押し、応答。
『どう、まつりんとはうまくやってる?』
コウカさんだった。
「ええ。さっきもお菓子を沢山買ってきて、楽しそうに」
まつりがパジャマのボタンを勝手に外してきているのをどうにか無視しながら言う。
「あ、コウカ、今お取り込み中だよ! 聞いてく?」
途中から、まつりが余計なことを通話口に吹き込んだ。
『相変わらずね、あなた』
彼女の呆れた、けれど優しい口調が伝わる。
「後で、お土産、渡しますね」
会話の流れを変えようとぼくが言うと、まつりがより密着してきた。
「……こら」
「甘えたい年頃なのです」
「もう、あとにして」
『ああ、はいはい、二人の実況中継はまた後で聞かせてね、私仕事あるんだけど』
「こ、コウカさ……っ、ちが」
『あと私、名前変わるから。銅桐谷。
もともと前の名字は佳ノ宮の方との繋がりに必要だっただけだし、もう執着はないもの』
「えっ?」
どうきりや……字がわからない。
「おめでとう、コウカ」
まつりだけは、何か知っているみたいで、にこっと笑う。
「やっと、呪われた姓だときみが言ってたモノから、解放されるわけだ」
『ええ。ほーんと。うっとうしくてならなかったわ。どうしてあんな名前に縛られるのかと』
「やっ、まつり……ん……電話、返して、よ」
「可愛い」
『はいはい、いちゃつくのは、二人でしてちょうだい』
「可愛いだろ?」
『うふふ、そうね』
はだけさせられた服を着直すと、電話を奪い返して通話を切った。
「まつりのばか……」
「ごめんごめん」
まつりが楽しそうに笑う。
「きみに感情らしい感情が浮かぶようになってきて安心しているんだよ」
少し前まで、触られるのがひどく怖かった。
まつりにさえ、腕をつかまれるだけで嫌で、不安になった。
「なんで、安心なんだ?」
「人間味が無いとか言われるなんて、悔しいじゃない」
「なんでまつりが怒るんだよ?」
「うふふ、質問ばっかりだね」
「……ちがう、あの」
「自分の感情をうまく伝えられないだけで、誤解されるだろう?」
そうかもしれない。
「自分の理解が及ばないことを見つけると、自分自身を否定された気分になるひともいるみたい。
何か、本でよんだよ。
わからないことを見つけて、喜んだり成る程と思う人間と、自分を否定されたみたいだと思い嫌な気分になるから嫌うことで納得する人間がいる」
「……」
「だから、代わりにきみを責めることで気持ちをおさめようとする人が居るかもしれない」
「それでも、まつりは――」
「まつりはいつだって、きみの味方だけど。でも、きみには他にも沢山、友人ができただろう?」
クラスメイト。
コウカさん。
それから。
今まであった、いろんな人。
どの人も大切だ。
べったりしたコミュニケーションが重たいから、というだけで、自分からあまり話しかけはしないけど。
大事に思っている。
「でも、まつりと居るときが、一番安心するし……」
それに。
毎日毎日会話しなければ、ならないのだろうか?毎日遊ばなければ、友人ではないのだろうか。
そんなことは、ないと思う。
どんなに好きだろうと、そればかりでは息苦しくてたまらない。
だから。
たまに、なだけ。
「お前とばかり居ると思うなよ? ぼくもクラスの人とはよく話しているんだ」
「あら。そうなの?」
まつりは少しだけ、寂しそうに笑う。
「クリスマスには、お前との仲を、なぜか応援してくれたし。誕生日にも、なぜかぼくの欲しいものをみんなでくれた」
あれは嬉しかったな、とはにかむと、まつりがきょとんとした。
「何を?」
「……秘密」
まつりの写真が入った、小さなアルバムをもらった。ぼくの知らない、女子高生と戯れるところとか普段見慣れない表情が超絶に可愛いのだ。
あと寄せ書きも付けてあった。こちらはなぜか、ぼくとまつりの仲を応援するメッセージが沢山入っていた。
何回も、寝る前に見返したりする。
「みんな、いいひとたちだよ!」
ぼくが言うと、ななとは変わったね、と、まつりが目を丸くした。
だとしたら、まつりのおかげだろう。
根の部分を肯定してくれる人がいた。それだけで、生きていられる。
「まつりに依存してはいるけど、ちゃんと、他の人とも関わっているから、安心して」
「うー……それはそれで、なんか寂しいのです」
まつりは複雑そうに唇を曲げた。
「ぼくはね、やりたいことを見つけたんだ。だから少しずつ、いろんな未練が無くなってきた」
「少し前に言っていたね、そんなことを」
「うん。そしてそれはきっと、透さんやコウカさん、もちろんまつりの元に居ても身に付かないだろう」
自分で探さなきゃだめなんだとやっとわかった。
彼らはいいひとだ。
でも好奇の目は辛い。
たぶん、あのとき以上の頻度で、常に一緒に居たら心が粉々に壊れてしまうと思う。
透さんの質問は、校舎で聞かれた程度でもぼくには苦しくって、とにかく消えてしまいたくなった。
おかしいから興味を持たれるわけで、それをそのまま研究に回される生活なんてしていたら、自分は周りと同じように生きてはならないのだろうかと、病んでいくだろう。嫌いではないが、出来ればもう二度と関わりたくない。
まつりもぼくも『化け物同士』だと彼は言った。その上で、以前のように、ひたすらに研究対象として搾取される目に合うくらいなら……まだ消えてしまう方がいいと、どうしても思わずにはいられないのだ。
まつりが自分を計られるのが嫌だと、小さな頃は逃げ回っていたというが、ぼくもごめんだった。
コウカさんは優しい。
けれど、あの人自体が匿われているのだから、余計なリスクを背負わせたくはない。
「まつりに会えないのは辛いけど」
手放すことで見えるものは沢山ある。だからこそ、ぼくはいつか、まつりとも違う道を行くと思う。
そう感じた。
「止めたって無駄だよ」
ぼくは、ひとりなんだ。
思っていたよりもそれは、暖かい、優しい言葉。本当に、本当にひとりぼっち。だからこそ、生きていこう。
それをやっと、受け入れられた。
時間はかかったけれど、まっすぐ、受け止めようと思えた。
それは紛れもない成長だ。
「止めないよ。でも、少し寂しいなぁ」
まつりは、楽しそうに笑う。ぼくは、パジャマの裾で顔を隠しながら、シーツにうずまる。
「そう?」
「でも、こうして大人になるんだろうね」
乗り物にも乗れるし、食べ物もわかるし、料理だって覚えた。
ご飯は炊くものだということ、車はヒトが運転するから動くのだということも、それを移動に使うということ。
料理するとよりご飯がおいしいということ。
口に押し込めば、それが食事だから、なんでもいい、ご飯も炊かなくていいと思っていたぼくに『食べる』ことを教えてくれたのはまつりだった。
それは、一人では、身に付かないことだから。
生きればいい、ではなく、楽しく、自分に優しくなって、生きること――
「昔、調理実習してたら『ご飯も炊けないのか』って怒られたことがあって……なんで炊くのかもわからないまま『甘えすぎだ』って、先生に怒鳴られて」
一般的な生活が出来なければ、勝手に甘えたことにされてしまう。
その上、信じられない、と、散々に言われる。
『そのくらいでそこまで?』 と、その頃のぼくは思っていたと思う。
人にはそれぞれ、そうなるための状況があるはずなのに。
その人には理解出来ないから、という理由で、勝手に当たられたりしたし、悪いように言われたこともまつりが言うように確かにある。
「辛かった?」
まつりが聞く。
辛かったね、と決めつけないのがそいつだった。
「うん……」
ぼくは苦笑いする。
抱きよせられて、二人でごろんと横になる。
「放課後に怒鳴られたよ。甘えだ、世間知らずだ、大抵そんな考えしか出てこないんだよね。
絶対考えたことないよな、追い出されてずっと外に居た子どもが、炊飯器を使えるのか、とか」
「そりゃそうだよ。豊かな町だからね、表向き」
「まぁ、視野が違うひとは向こうから離れていくし。無理して留まったりしないだろ」
「そうだね」
「ぼくは、誰にも寄り添える大人に、なれたらいいな。出来たら、だけどね、その人にはその人の状況があるわけだから」
「うふふふ」
まつりは楽しそうに笑う。それから引き寄せたぼくに手を出し始めた。
「や……だ」
いきなり押し倒されて、何回も首筋を吸われる。なんの意味があるのかわからない。
少し怖い。
「嫌?」
服の下に手を入れられてびくっと震えていると、囁かれる。何も言えずに睨み付けると、可愛い、と言われた。
「……っ」
今日は、可愛いばかり言われている。
なんだか、情けなさと、嬉しさと、ドキドキが混ざった、変な気分。
「何?」
楽しそうな目と目が合う。さら、とそいつの髪が頬を掠めて、柑橘系のにおいがする。
「や、優しく」
「うん」
楽しげに軽く頷かれて、少し、信用できないと思った。
「ほんとに、わかってるのか」
「わかってる」
「……」
「怖いなら、いつでもやめる」
「なぁ」
「何?」
「……しばらく」
「うん」
ぎゅうっとしがみつくと、まつりは優しく体重をかけてきた。
「どうやったら、寂しくなくなるかな……」
安心する。
初めてだ。
ソファーでの経験から数ヵ月――
まつりの体温だけは、もっと感じていたいと思うようになった、かもしれない……
「感情が、芽生えてきたってだけだよ、怖いかもしれないけど、大丈夫」
そうなのだろうか。
感情。
よくわからないけど、こんなに苦しくて、辛くて、でも、乗り越え方がわからなかったのは、人生で初めてだ。
「もし、今日、ずっとこのまま寝たいって言ったら、許してくれる?」
まつりは、目をぱちくりとさせた。
バスの中で寝ぼけているとき、実は少し起きていた。うまく甘えられないから、だから、少しくらいはいいかと思ったのだ。
少し驚いたそいつは、やがて優しく目を細める。
「当たり前だよ」
そして、ぎゅー、とぼくを抱き締めた。
窓から射し込む柔らかい太陽の光に目覚めると、隣でまつりが寝ていた。 ぎゅっとしていてくれたはずだが、あいつは寝相があまり良くないから、いつの間にか、ぼくとは離れた壁ぎわにだらんと転がっている。
「ホオジロザメさんー」
まつりがむにゃむにゃ言ってる横で、はだけたパジャマを着たぼくは火照った頬を隠すように布団に潜る。
昨日、言われた言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。
『まつりの、およめさんっ』
優しく、甘い言葉。
たぶん最中に、無意識にこぼれていた。
あれはどういう意図で投げられたものなんだろう。
よく、わからない。
「……っていうか」
昨日もこいつは寝た。
途中で。
あぁこれから隅々まで戴かれてしまう、と怯えと期待が混ざった気分で居たけれど、ぼくをぎりぎりまで散々乱して、寝た。
疲れていたんだろう。それはわかる。
あいつは、苦手な人混みでもぼくが居れば付いてきてくれるけど、やはり疲れは大きかったはずだ。
「うー……いつもいいところで、たどり着けないというか」
『まつりだけのおよめさん、なのです』
なんだよ、およめさんって。それは男のヒトにかける言葉なのか。
その辺がまつりらしいけれど。
というか昨日の状況からしたらやっぱりぼくはそういう……ふうに……
「あぁ、もう……」
頭を抱えていると、愛しいご主人様が起床してきた。
「おはよう」
挨拶しながらぼくに被さってくる。
「うん、おはよう」
のを、避けながらぼくは淡々と返す。まつりは、ジト目で、不満そうだ。
「つれないなー、昨日は、可愛い仔犬ちゃんみたいにいっぱい鳴か――」
「うるさい、おはよう、黙れご主人さま」
「もう、すねちゃってー。朝は元気いっぱいだけど、する? ほら、ご主人様ぁって甘えていいよ? 甘えんぼさん」
「思うに、ぼくは、どうも昨日のテンションがおかしかったんだ。たぶん酒ケーキのせいだ。酔いまではいかなかったけど、気分が変だった」
「激弱いから、ひとかけらにしてあげたけど、あのくらいなら甘えんぼな天使が見られると」
どうも知っていたらしい。うんうんと頷いて、にやけていた。
「ま、まつりのバカ」
恥ずかしい。
「でも、酔うと、抑制された本音が引き出されると言いますしー?」
「ち、が……!」
今朝、猛烈な自己嫌悪と羞恥心に見舞われながら、一人でシャワーを浴びたぼくの気持ちたるや、かなりダークなものだった。
まあ、いいけど。
よくあることだし。
それに、一人で、確かにまつりに愛されていると実感する時間でもあったりする。
「なぁ、まつり」
「んー?」
そいつは、昔よりも柔らかくなった笑顔で、こちらを向いて首をかしげる。
「ぼくと――結婚したい?」
ふわ、と頬が赤くなったそいつは、目をうるませながら「い、いきなりなに……」と聞いてきた。
「お前がいないといきられない体になったらさ、その方が便利かなぁと」
「んー、そうですねぇ」
まつりが、顎に手を当てながら、ふふふと笑う。
「毎日エプロン姿で出迎えて送り迎えして欲しいなー」
「なっ、するか……」
「夏々都は、家族、欲しい?」
ぼくは、家族がよくわからない。でも少し、興味があるかもしれない。
「そう、だね」
言いながら、少し恥ずかしくなってきた。
照れていると、まつりは「そっかぁ」と笑った。
「いやー、無表情、無反応だったきみが、今やこんな顔をしたり、寂しくなったり、甘えたりするんだから、ヒトって変わるよね」
うんうんと頷かれて、項垂れる。
「人を信じるのは、今も怖くて、つらい」
「そうだね」
心が壊れそうなことは、沢山あって、実際、今もこうして生きて居られているのは奇跡みたいだ。
「きみは、はじめて会ったとき、庭に居たね。
家に居られないから、と夏場も。冬の雪の中でさえ。そして、食べ物のことも、台所で、自分の席について食事をすることも、したことがなくて、知らなかった」
「あはは……恥ずかしい」
そういえば、まつりは、重いとも、かわいそうだとも言わなかった。
そういうのは主観だし、一方的な価値観でしかないし、ぼくは、庭に居ても悲しいと感じたことはない。
だから、その、変わらない態度がとても嬉しかったのだ。
「教えたら、できてたじゃないか」
「うん……」
「うふふ。嬉しそうなきみを見守るのも、生活を教え込むのもなかなか、やりがいがあったよ」
まつりは、優しく笑っている。ぼくは少し、目が潤んだ。
わからない、と言うと、罵られ、それだけで、クズだと言われることも沢山あった。
小学生の頃だ。
痛みや味覚が、わからなくなっているぼくに、わざわざ痛いことをさせてまで、気持ちが悪い、人間じゃないと言ってくる人も居た。
つらかった。
自分にある感覚が無いからと言って、どうして人はそれほど非情になるのだろう。
今となってはどうでもいいか。
「手間がかかるって、言わないでくれるんだな」
「まつりはすぐに記憶が無くなるから、きみにしか頼れないのでお互い様なんだよ」
きゃっきゃっと、まつりは笑う。
自虐的だけど、楽しそうに。
確かに大変なこともあった。けれど、過去の、あいつのナイフの名前も、他のことも、まともに全部言えるのはぼくだけだ。
だからこそ、あいつを正気に戻すのは、ぼくにしか出来ないこと。
「お前の見せ場が多すぎるせいで、ぼくの重要性が伝わらないんだけどな」
「うふふ……コアなファンにだけ、愛されれば良いのですよ!」
「うー。なんかなぁ」
ちら、と時計を見ると7時。
「さて、ブラシをかける時間だ」
ぼくは思い出したように、そいつを抱き抱えて、ベッドから、椅子へと移動させた。
「やぁん、夏々都くん、大胆……」
とご主人様は謎の勘違いをしている。
「じっとしてろ」
「んー?」
不思議そうにこちらを見つめていたが、やがて、気づいたらしい。
「……っ! ブラシ」
逃げ出そうとするので、服の裾をつかんで連れ戻してから、耳元で囁く。
「いい子にできたら、ごほうび、あげるよ?」
ご主人様が、ごく、と唾を飲んだ。まつりの扱い方を心得てきたぼくである。
左手をかじかじとあまがみしているうちに、右手で、櫛を入れる。
そいつの髪は、細くて柔らかくて、少しドキドキした。
痛くならないよう、ひっぱらないようにと、スプレーをしながらも、丁寧にブラシを動かす。
「うん。まつりは良い子だね」
優しい気持ちになりながら、髪を整えていると、そいつは、とろんとした目で、椅子にもたれてきた。
「あ、ちゃんと座って?」
「ん……ねむい」
「もー、じゃあ、おしまい」
おしまい、と聞いた瞬間に、飛びかかられてベッドにダイブする。
「ご褒美っ!」
「ひゃっ」
いつのまにか着ていたワイシャツが剥ぎ取られ、、抵抗する。
「やーめーろー、ご褒美はぼくじゃない!」
聞こえてないのか、被さってきてぺろぺろと顔を舐めてくる。
「もう、べたべたする」
「ん? そーお?」
「あっ……やだ」
顔に気をとられるうちに胸元を舐められて、必死に口を押さえる。
シーツの上で足をばたばたさせていると、余計に激しくなる。
「んっ、あっ、ばか、あげない、よ……」
ズボンのポケットに入れたそいつのお気に入りのチョコレート菓子を取り出すことが出来ない。
しばらくされるがままになっていたが、だんだんむかついてきた。
「……も、う! やめろ!」
無理矢理引き剥がして、布団に潜る。
「あっ」
まつりが残念そうな声を出した。知るか。
昨日は放置して寝ておいて、今日は逆に強引だ。どっちかにして欲しい。
「なとなと」
「ん? 懐かしい呼び方だな」
そいつは、少しして布団にもぐりこんでくる。
「きみは、気持ち悪くなんか無いし、ちゃんと人間だよ」
そのまま、ぼくを引き寄せたそいつは、言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
うってかわって、真面目な声。
先程のは、空気を緩和するためだったのか?
まっすぐに見つめられて、ドキドキする……
ドキドキ?
え、あ。
なんだろう。
鼓動が、急にうるさい。
あの館から帰ってきた辺りから、少しずつぼくはまつりに触られても平気になってきている。
それから。
たまに、胸が痛いのだ。それから、隣に居ても、顔があつくなったりする。
バスのなかに居たときも、まつりが、熱が無いかと聞いてきたとき、急に熱が上がった。
病気?
「……っ」
「夏々都が好きだよ」