湖面に写る月の環

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込み上げる恐怖にすくみそうになる足を無理矢理動かして、少女は海へと身を投げ出そうとし――それは寸前のところで引き止められた。
「何やってるんだ、馬鹿!」
「っ」
振り返ったそこにいたのは、一人の青年。まだまだ若い彼は、少女より少しばかり年上か、同い年か。
「今なら間に合う。考え直そう」
そう告げる青年の手が、肩を掴む。「まだ若いのに」「自分から身を投げ出すなんてダメだ」なんて在り来りな言葉をかけてくる彼は、自分よりも必死な形相をしている。
「……どうして止めるの」
(貴方の方こそ、死にそうな顔をしているくせに)
今すぐ全てを投げ出したいと、そう願っているはずなのに。
「そ、それは……」
「同情ならいらないから」
ふいっと視線を逸らし、彼の手を振り払う。知らない人に差し伸べられた手なんて、少女には関係がなかった。しかし、そんな少女にもめげず、青年は声を上げる。
「ど、同情なんかじゃない!」
その声の大きさに、少女は目を見開く。腹の底から声を上げたらしい彼は、肩で息をすると悔しそうに眉を寄せた。
「お、俺はただ……こんなに可愛らしい女性が、身を投げ出そうとしているのを……黙っていられなかっただけで」
もごもごと話す青年は、視線を彷徨わせる。そんな彼を横目に、少女は驚きに打ちひしがれていた。注がれる言葉の全てが、初めてのものばかりだったから。
「も、もし君に生きる理由がないのなら、俺を君の生きる理由にしてくれないか!?」
「――えっ」
「も、もちろん嫌なら断ってくれて構わないし、ずっとじゃなくてもいい。でも……もし、無価値な俺なんかで君を引き止められるなら、君の生きる理由になれるのなら、それでもいいと思うんだ」
真っ直ぐこちらを見つめ、そう告げる彼に、少女は何も言うことが出来なかった。こんなに真撃に向き合ってくれたのは、彼が初めてだった。――その青年と、こうして結婚し子供を授かり、孫までできるとは、その時は微塵も思っていなかったけれど。
「ふふっ。あの人、本当に寂しがり屋だから」
ことある事に逢いに来ては、他愛もない話をして帰っていく。帰り際、愛を囁いて行くのは彼の癖だった。いつの間にか心惹かれ、気がつけば彼と恋仲になって数年。あの日感じた孤独を感じないまま、もう何十年も経っている。
亡き夫の遺影を見ながら、少女は笑う。――嗚呼、でも。やっぱり仲間の元に戻りたい。彼には悪いと思いながらも、少女は祈る。それは人が“家”を求める感覚にどこまでも似ていた。
(願わくば、貴方と一緒に)
……なんて。怒られるかしら。


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