秋恋 〜愛し君へ〜
飛行機は暗闇に光る誘導灯に向かって降下していった。
宮崎、樹はここにいるはずだ。
俺は荷物もなく、すぐに到着ロビーへ出て来れた。メモに書かれている病院への交通手段を聞こうと、サービスカウンターにいる女性に声をかけようとしたその時だ。

「長谷川くん」

男の声、俺の背後から聞こえた。声に聞き覚えは無い。こんなところでなぜ俺を知っている?
俺は振り返った。

「長谷川くん、だね?」

こんがりといい具合に日焼けした肌に、すらりとした逆三角形の体型、めくり上げたワイシャツの袖口から伸びた腕が男の俺が言うのもなんだが、羨ましいほどの美しさだった。どこかで会ったような見覚えのある顔だ。

……樹?

そうだ樹だ!樹に似ている!特に二重瞼で、黒く澄んだ瞳は、樹の方が若干目尻が下がっているもののそっくりだ。もし樹が男に生まれていたらこんな感じなのだろう。


「はい長谷川です」

「はじめまして、樹の兄です」

「はじめまして、あのぉ…」

「一緒に来てくれないか」

彼はそれだけ言い、出口の方に歩き出した。自動扉を抜け外へ出ると突然立ち止まり、俺に向かって、両手の拳を握りしめ頭を下げた。

「すまない」

「え?」

なぜ俺は彼に謝られているのか…

「あのぉ、何が何だか理解できないんですけど、ちゃんと説明してもらえますか?」

俺たちは近くにあったベンチに腰掛けた。

「君を帰国させるように頼んだのは俺だ」

「えっ⁉︎ 」

「副支配人さんに頼んだ」

「陽子さんに?どうしてですか」

彼は何度も唾を飲み、自分自身と葛藤している様子だった。そしてようやく口にした。

「兄貴として、樹をこのまま死なせるわけにはいかなかった」

死 この人は確かに今そう言った。

誰が?樹が?

「樹は癌なんだ。もう助からない」

癌 誰が?樹が?

彼は樹が癌でもう助からないと言っている?

「樹は6月にこっちに帰ってきた。会社も辞めた。樹は身体がちゃんと動いている間は向こうで暮らしたいと言った。君と過ごしたマンションで暮らしたいと言った。でも無理矢理連れて帰ったんだ。癌と診断され、余命半年と言われて、一人で向こうに残るなんてそんなことさせられるか」

半年?
6月に帰ってきたと言った?
会社も辞めたと言った?

俺の脳は猛スピードでバラバラに散らばっていたカードを集め並べ始めた。そして理解してしまった。

樹は癌に侵されていて、もう助からないのだと。そして半年と言われた余命も残りわずかだという事を…

俺は身体中のあらゆる神経を根こそぎ切断されたようだった。

「樹は5月に入った頃、最近あまり食欲がない。体重も減っているような気がする。電話でそう言ったんだ。父方のじいさんも癌で同じような症状だったから、お袋が慌てて東京に行って検査を受けさせた。じいさんと同じだったよ。スキルス胃癌。質の悪い癌で、普通の健康診断じゃ見つからない。見つけたときには手遅れなんだ」

痩せてきた

俺はハッとした。日本を発つ日、樹の身体が細くなったと俺は感じていたじゃないか!

「樹は、俺たちの前では普通に振る舞って笑っても見せる。だけど、心から笑ってはいない。でも、君の話をするときは違う。本当に嬉しそうに笑うんだ。君に電話をかけている時は、病気なんかどこかに吹っ飛んでいってしまったんじゃないかって思うほどだよ。樹はわかっている。自分は癌でもう長く生きられないこと。覚悟してるんだ。君が日本に帰ってきたとき、自分はもうこの世にはいないんだっていうこと。君に、二度と会えないということを」

彼の口調は穏やかだった。でも、膝の上で握り締めた拳は小刻みに震えていた。

「子供の頃の樹は、寂しがり屋で弱虫だった。いつも俺にくっついて、ちょっとでも俺を見失うとメソメソ泣いていた。樹を一人にしないでってか細い声で言うんだ…」

「今君が、必死に前に進んでいるのに、自分のせいでやめさせてしまうのは絶対にしたくない。病気のことを知れば君はきっと帰ってくる。だからこのまま黙っているのだと。それに痩せてしまった姿を見せたくない。君には元気な自分の姿だけを覚えていて欲しいのだと。もし、力尽きてしまって、君に会えなかったとしても、君が無事に研修を終え黒服になってくれたら、それで満足なのだとそう言った。大人になったのだから強くなった。そう言ってしまえばそうなのかもしれない。でも、俺にとって樹は、昔のままの、寂しがり屋で弱虫の妹のままなんだ。だから必死に強がっているだけなんだと。俺は見ていられない。最近あまり体調がおもわしくないんだ。本当にすまない。呼び戻したりして申し訳ない」

彼は何度も何度も頭を下げた

「頭を上げてくれませんか。僕は感謝しています。呼び戻してくれたこと本当に感謝しています。それに、研修は終りました。ちゃんと終わって帰ってきたんです。だから謝らないでください」

「終わった?」

「はい、終りました。僕は黒服になったんです」

「本当か?本当に?」

「はい」

俺は頷いた。

「そうか…」

彼の表情は段々と和らいでいった。

「あの、連れて行ってください。樹さんの所へ」

「もちろん」

俺たちは駐車場に向かい、止めてあったRV車に乗り込んだ。
中央分離帯に埋められたワシントンニアパームの木々が夜風に揺れている。いつか二人で来ようと約束したこの地に俺は一人でやって来た。どうしてこんなことになるのか、やり切れないこの気持ちをどこへやっていいのかわからなかった。現実逃避したくなる。
「何騙されとんねん!」そう言ってドッキリのプラカードを掲げた勇次が現れて、得意そうな顔で「お前ホンマにアホやなぁ」って、そうだったらどんなにいいか。でも、無情にも、救急用の点滅している赤い誘導灯が俺の視界に入ってきた。段々近づいていく。
車は病院の駐車場に止まった。車を降り、彼の後に続き裏口らしき所へやって来た。
静まり返った院内は誰の気配もなく、俺たちの足音だけが響いていた。エレベーター前まで来た時

「ここから3階に上がって左に行くと樹の病室がある。俺は帰るよ。明日また来る。樹を頼むな」

そう言うと、彼はエレベーターの上ボタンを押し、元来た通路を帰っていった。

俺は言われた通りに3階で降りると左へ進んだ。
一つ一つ病室のプレートを確認しながら足早に進んだ。
306号室、307号室…
 
 308号室 岩切樹

やっぱり俺は現実の世界にいる。
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