囚われのシンデレラ【完結】

 開いたバイオリンケースの中に挟んである一枚の写真。

「今日も、頑張ります」

そこに写る人に頭を下げる。それが練習開始の儀式みたいになっていた。
 ここの学費も生活費も。すべて、私のお金ではない。それにはあの人の思いが込められている。

 調弦して、すぐにバイオリンを構える。

 モスクワに来てすぐの頃だったか。母から連絡が来た。

(今、大変な時期でしょうに、西園寺さんがうちに来てくれたわよ)

その言葉に驚いた。

(離婚することになってしまったことをきちんと謝りたいと、謝罪に来てくれたの)

私が見た西園寺さんの最後の姿。記者会見から、まだそう時間は経っていたなかった。まさに、大変な最中にいたはずだ。

それなのに――。

(遅くなって申し訳ないと、あずさを幸せに出来ず申し訳ありませんと頭を下げて行ったわ)

何から何までお世話になっているのはこっちなのに。

母からの電話があったその日が、私が泣いた最後の日だ。


 そのあと、センチュリーの不正が日本でどれだけ騒ぎになったのか。ここにいたら、こちらから詳しく調べ出そうとしない限り知ることはなかった。母も、私に気を遣ったのか西園寺さんに頼まれたのか、何も伝えては来なかった。

 西園寺さんの置かれた状況を想像すると、居てもたってもいられなくなった。でも、その分だけ私のするべきことをした。必死にバイオリンに向き合い続けた。

 西園寺さんのその後の状況を少しだけ知ることが出来たのは、それから数ヶ月経ってからのことだった。

 音楽院1年目の冬のはじめ、ソコロフ先生がロシアに帰国した際に私に連絡をくれたのだ。

『佳孝のことだが、父親をはじめとした西園寺系の役員が逮捕された。そして、漆原も』
『西園寺さんは――』
『当初は、佳孝も取り調べは受けたようだが、その身の潔白は証明されたよ。法的には……ね』
『法的……?』

ソコロフ先生が、私から目を晒した。

『……詳しくは私も分からない。佳孝とは、もうずっと連絡を取っていない。いまだ、西園寺家へのバッシングは残っている。それに自分の親族が拘留されている身だ。私に気を使っているんだろう』
『西園寺さんが今、どうしているか、ご存知では――』
『すまないね。そういうわけで、佳孝には会えていない。いろいろと報道はあるけど、どれも本人から直接聞いたものではないから』

ソコロフ先生は、どこか言葉を濁し必要以上のことを話そうとはしなかった。

その身が無事かどうか。それだけでも知りたい。漆原会長の身も捕われているのなら、西園寺さんの身は大丈夫なのだろうか。

それとも――。

悪い想像をしてしまいそうになって、ふるふると頭を振る。

大丈夫。
もし何かあったなら、どんな伝手を使ってでも斎藤さんが私に連絡をくれるはずだ。

何の根拠もないのに、そう確信出来た。斎藤さんは、西園寺さんを守ると私に約束してくれたのだ。

『センチュリーグループ自体は、株価は一時暴落して痛手は受けたが、最低限の損害で済んでいるようだよ。イメージの悪化も限定的だ。第三者からの告発ではなく、身内自らの公表だったからね。信頼のすべてまでを失わずに済んだんじゃないかな。今、センチュリーは、新たな経営陣に刷新している。西園寺の人間は皆退陣したようだ。その時まで、佳孝が調査協力と後処理に尽力していたのは確かだ』

ただそれだけは、ソコロフ先生が私に伝えてくれた。

西園寺さんは、必死に社員を守ったのだろう。

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