旦那様は甘えたい
「良い訳ねーだろ」

ふに、と唇に冷ややかな感触。
驚いたように目をむけば、私の唇を覆い隠すように大きな手のひらが押し付けられていた。

「…あーあ、随分と早ぇお帰りで。後ちょっとでも遅けりゃ飛鳥とキス出来たのに」

「安い挑発しないで椿。そもそもお前俺が帰ってきてるの気づいてただろ」

「まあ。でもそんなに急いで走ってくるとは思わなかったかな」

薄く笑って身を引いた椿さんと私の間に身を滑り込ませた竜胆さまは、一目で見てもすぐ分かるくらいに憤っている。
きゅうっ、と縦に伸びた瞳孔に、狼が威嚇をする時みたく低い音で喉が鳴って。血管の浮きでた首筋には、汗の筋が残っていた。

「俺言ったよね、自重しろって。冗談で手ぇ出したら殺すってさ」

「ああ言われた」

「じゃあこれは何」

「いや何って、お前が言ったんだろ。冗談半分で手ぇ出すなって。俺はその約束を破っちゃいねえよ。ただ本気になっただけだ」

「っ!」

「なんか問題あるかよ。お前と飛鳥はまだ何一つだって結ばれちゃいねえ。この神社の妖に嫁ぎに来たって条件なら、その相手が俺だろうが問題ねぇよな?」


しばし沈黙。お互いが真っ向から相手の顔を睨みつけて、水面下の戦いを繰り広げているように見える。

そして置いてけぼりをくらっている私はただ、「は?」の一言に尽きるのであった。

いやだって考えてもみてくれ。あたりの空気は最悪。ちょっと上を見上げれば特大美形大合戦みたいな筆舌しがたい陰湿空間が出来上がっているんだぞ。殺すとか冗談とか本気とか、もう正直よくわかんない。頭はパンクもパンク。白煙が昇ってショート寸前だ。

2人のイケメンが私を取り合って…!?なんて能天気ヒロイン出来たら良かった。私だってそうなりたかった。
でも争っているのはちょっと意地悪な学園王子とチャラいのに一途な幼馴染とかのレベルじゃない。獅子VS虎、蛇VSマングース、極めつけにはドラゴン同士の壮絶なぶつかり合いにすら見えてきた。

あわや神社が無くなるほどの大乱闘か…!と一人身構えてぎゅっと瞳を瞑っていれば、何やら肩にかかっていたプレッシャーみたいなものが和らいでいくのが分かる。恐る恐ると目を開けてみると、お互い何とも言えない顔をしながらも殺気はしまいこんだ二人が、ただ黙って目だけで会話を成立させているようだった。

「…あの、何がどうなりそうですかね…?」

ビクビクと口を開いた私に申し訳なさそうな顔を向けたのは椿さん。竜胆さまはまだちょっと消化不良と言うか、納得してないみたいな不満気な目で私をじっとりと睨んでいる。

「あー、悪かった飛鳥。ビビらせたよな。気分悪くなったりしてねぇ?」

「俺に関しては俺もごめんね。目眩とか吐き気、ある?」

そっと額に当てられた竜胆さまの体温に、焦りと興奮でほんの少しだけ上がり始めていた体温も落ち着きを取り戻す。
大丈夫ですよと伝えれば二人は分かりやすく安堵した。

「…取り敢えず椿は南の離れに移って。暫く飛鳥と故意に2人っきりになるのも禁止だから」

「ま、今回に関しちゃ俺の方に非があるからな。甘んじて受け入れてやるよ」

「あ、それが今無言で行われてた事の顛末ですね?」

竜胆さまの言葉に渋々ながら頷いた椿さんは、二、三個会話を交わした後に渡り廊下へと足を進めた。
去り際に一度「飛鳥」と私の名前を呼んだけれど、直ぐに竜胆さまが私を背中に隠してしまったので、呆れたような笑い声を最後に大人しく部屋へと戻ったようだ。

「…」

「…」

そうして残された私たち二人。正直気まずいなんてレベルじゃない。竜胆さまは一言だって口を開こうとはしないし、けれど真っ黒な瞳は明らかな不満と抗議、それから寂しさを宿して私を真っ直ぐ射抜いている。

「…俺達も部屋に行くよ」

「え、あっ、はい」

沈黙を切り裂いた竜胆さまは、座っていた私の手を引いて黙々と離れの一室を目指す。
少々乱暴に襖を引いて、お昼時の明かりがたっぷりと射し込んだ室内には、竜胆さまの分の布団だけが敷かれたままになっている。
そういえば今朝は椿さんの騒動があって、竜胆さまは起き抜けのままに鳥居前まで来てくれたのだ。その後もまた色々あるうちに離れには戻ってこなかったから、布団が敷きっぱなしになっていることにも気づかなかった。

「あの、竜胆さま…?」

竜胆さまは襖を締め切って退路を閉ざすと、私を引き連れたまま敷きっぱなしの布団の上へと胡座をかく。その中心に私を座らせて、背中を向けた後ろっかわからがばりと逃げられないほどの強い力で抱きしめられた。

「…かなしかった」

その声色が、あまりにも切に響いたから。私は思わず振り返って彼の背中に手を回す。

「あすかが言ったんだよ。竜胆さまって。椿じゃない。君は俺のお嫁さんなのに」

「…はい」

「ねえ、俺のことだけ見ててよ。椿だろうと、他の雄に目移りなんてしたら許さないから。あすかは俺の、俺のお嫁さん」

「竜胆さま…」

ふるふると震える彼の瞼に手を伸ばして、そっと安心させるように優しく撫でる。
いやだ、だめ、おれの。羅列された言葉はどれも竜胆さまの独占欲が発露されて、その温度がどうにも胸を締め付ける。

「…すき、すきなんだ」

だけど、その言葉だけは。すとんと受けとるにはあまりにも重く複雑で、私は何も言うことが出来なかった。
どうして、なんで。疑問は浮かび上がるばっかりで、それが音になることは無い。私はただ唇をきゅっと噛み締めて、雨粒のように降り注ぐ竜胆さまの甘やかな言葉に耳を傾け続けていた。
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