星のゆくすえ
プロローグ

嵐の夜

その日は今にも雨が降りだしそうな天気だった。

「ルネ、星は見れそうにないね」
大きめの窓から空模様を眺めていた少女が言った。
「今日から三日は雨になるわよ、マーシャ」
ルネと呼ばれた人影が振りむき、豊かな黒髪を揺らして残念そうに言った。
マーシャと呼ばれた少女は、こちらも見事な金糸を指でいじり、むすくれてしまった。

屋敷の薄暗い廊下であっても、子どもたちの愛らしい容貌は損なわれることはない。画家が見れば、絵の題材になりそうなほどの雰囲気がそこにあった。
一人は波打つ背中まで黒髪を、深緑のリボンで結わえている。切れ長の目に薄い唇をしていて、子どもらしさはあまりない。頭の上半分をまとめる髪型は、その大人びた顔つきをより強めていた。
同じ色のドレスは普段着用なのか素っ気ないが、知的な印象がさらに深くなり、ぱっと見は学者や文官の娘のような理知的な美しさがあった。
もう一人は腰まである真っ直ぐな金髪を赤いリボンで結えている。同じく頭の上半分をまとめているが、顔立ちが幼く、あまり似合っていない。
太めで短めの眉は生き生きとし、青いどんぐり眼は活発な光を宿しており、薄い桃色のエプロンドレスは肘や袖口が擦りきれ始めている。彼女に会う人は、太陽の下で笑っている姿を容易に想像できるだろう。

マーシャはもう一度外を見た。彼女のバラ色の頬にあたる風は湿り気を帯びており、太陽はしばらく顔を見せてくれはしないと、幼い少女に現実を突きつけた。
「マーシャ様、ルネ様!」
しゃがれた声が廊下に響いた。マーシャが降りむくと、彼女の婆やが早足で向かってくるところだった。ずんぐりむっくりした身体を揺らしながらやって来た彼女は、窓を早々に閉めて子どもたちに忠告した。
「さぁさぁ、部屋にお戻りくださいまし。婆やが整えておきましたからね。寝る前に聖句の暗唱をーー」
「しないとベーギー・バーギーが出るんでしょ?」
「ベーギー・バーギー よふかしする わるいこは ひとくちでペロリ♪…」
マーシャがうんざりした口調で言うと、ルネがふざけて子守唄を口ずさんだ。それを聞いたマーシャが一緒にふざけて歌おうとすると、婆やは眉をつり上げて小言を繰りだした。
「未来の淑女がどういうおつもりです!? もう十歳だというのに、旦那様がどんなに嘆かれることか…」
「おやすみなさぁい」
「なさぁい」
甘えた声でマーシャが告げる。ルネも倣って笑い、パタパタと可愛らしい足音をたててそれぞれの寝室へと走った。
婆やの「旦那様には報告しておきますからね!」という怒鳴り声を背に受けながら。

自室の扉を叩く音に、ルネは目覚ました。最初は降りだした雨音かと思ったが、あまりに弱々しいその音は、激しさを増す風や雨とは似ても似つかない。
暗闇に慣れぬまま寝台から足を下ろしたルネは、
そろそろと扉へと近づき取手をひねった。

「マーシャ?」
「…」

真っ白で飾り気のない寝衣に着替えた親友がそこにいた。ご丁寧に枕を両手で抱えて、顔を伏せている。
ルネは彼女の言いたいことをすぐに察して、部屋へと招きいれた。

「婆やが来るまでに戻ればわからないわ」
「ありがとう、ルネ…」

涙目になっていたマーシャは、零れないよう瞬きをして笑った。一人で寝るようにと父親から散々言いつけられていたが、こんな嵐の夜にはこっそりとルネの寝床に潜りこむのが癖になってしまった。
ルネは枕ごとマーシャを抱きしめた。仄かに石鹸の匂いがして温かい。二歳年上の親友は、いつまでこうして自分を頼らせてくれるのか、マーシャは遠くない未来を想像して、一人落ちこみそうになった。

「眠くなるまでおしゃべりしましょう?」
「うん」

風は屋敷を倒さんばかりに荒れて、雨音は大きく、重たくなった。雷なんて腹を空かした狼の唸り声のようだ。マーシャはそこまで考えて、頭を横に振った。こんな夜は、暗がりが口を開けて自分を呑みこんでしまいそうで眠れなくなってしまう。それでもルネが手を引いてベッドまで連れてきてくれるだけで、不思議と安心してしまう。
二人は並んで横になり、顔を突きあわせてひそひそとおしゃべりに興じた。

「あとどのくらい、いられるの?」
「うーん、お父様は三週間くらいで帰ってくるって」
「じゃああと一週間しかいられないのね」

マーシャがあからさまにしょげたので、ルネは慌てて彼女を慰めた。

「商売が上手くいけばって言ってたわ。それに道が悪くなれば遅れちゃうし」

マーシャは商売人というには厳ついルネの父の顔を思いうかべた。高い頬骨をした、鷹のような顔をした人だ。口数こそ少ないが、僻地や危ない場所で商売をしなければならない時は、こうして友人であるマーシャの父の家に預けていく、愛情を行動で示してくれる人だった。

「お父様ね、お手紙を書いてもいいって。お土産も一緒に送るわ…、ねぇ、マーシャ、あまりしょげないで」

ルネが困った顔でマーシャの両手を包むように握った。ルネより小さめの手は少しだけ冷たくて、知らず知らずのうちに、ルネは握る手にそっと力を込めていた。

「…うん、私もお手紙書くわ。うれしいことも悲しいことも全部」

マーシャはルネのエメラルドのような瞳を見つめて言った。ルネにはここにもっと居てもらいたい、だがそれはルネが愛する父と会えなくなることを意味する。ルネが悲しむようなことを、マーシャは決して望まなかった。

(私だってお父様にずっと会えなくなるのは嫌だ)

自分がルネと同じような立場になったらと想像するだけで、マーシャの気持ちはどんどん沈んでいった。

(私だったら泣き暮らすわ、絶対…でもルネはそんなことしない…)

マーシャはルネの強さを尊敬していた。人一倍甘えたな面のある彼女は、いつだって婆やに叱られてばかりだ。婆やだって怒りたくて怒っているのではないことぐらいはもう十二分にわかっている。それでも頼りになりそうな人がいると、どうしてもその人に頼ってしまいがちになるのだ。
恰幅の良いマーシャの父は、大抵のわがままは太い眉を優しく和らげて許してくれるが、厳しい時は厳しい。例えばマーシャがルネの寝室ではなく父の寝室に行っても、すげなく追いかえされただろう。
病気がちな母は受けいれてくれるだろうが、さすがに余計な負担はかけられないことぐらいわかる。マーシャは滅多に見られない母の白い顔を思い出して、サファイヤのような瞳を潤ませた。

(ルネはどうしてこんなに強くいられるんだろう)

ルネの母は、ルネが幼い頃に流行り病で亡くなったと聞いた。それから、ルネの父が遠方や危険な場所まで商売に行く時は、マーシャの父に預けるようになったことも。
だがマーシャは、ルネが泣くところを見たことがない。むしろ泣き虫なマーシャをルネがよく慰めていた。

「マーシャ、泣かないで」

ルネがマーシャの額に自分の額を合わせる。手も額も熱が生まれ、心地よい眠りへと子どもたちを誘った。

「泣かないわ……立派な、淑女になるの…」
「ええ、マーシャならなれるわ…」

双方とも夢見心地のままの会話だったが、マーシャにはルネの励ましが、何年経っても心に強く残った。
二人の意識は、そのままゆっくりと闇に溶けていった。

そして一週間後の朝、ルネは父や商隊と共に、自分たちの屋敷へと帰っていった。青空が澄みわたる、土の匂いが強い日で、マーシャは何度も目を擦りながら手を振った。
商隊が豆粒くらい小さくなるまで見送っていたマーシャは、婆やに何度も促され、重たい足を引きずるようにして屋敷に戻った。

(ルネ、私、強くなるわ。ーーあなたみたいに)

マーシャの父の元に、ルネとその父が土砂崩れに巻きこまれ、亡くなったと知らせが届いたのは、それから数週間後のことだった。
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