星のゆくすえ
修道女と騎士

八年後、教会にて

マーシャは目を開けた。未だに室内は青みのある暗さを(たた)えており、足下はおぼつかない。それでもマーシャは簡素なベッドから起きあがり、クローゼットに近づいた。

部屋には小さな本棚がついた木机と椅子、クローゼットやベッドしかない。必要最低限の家具のみが置かれたこの部屋は、修道院に併設された寄宿舎の一室だ。ここと似たような部屋があと二十はあり、耳をすませば皆が身支度をする生活音が聞こえてくる。

(ルネの夢なんていつぶりかしら)

マーシャは修道服に着替えながら考える。八年前に死に別れた姉のような親友の死を当初は信じられず、涙も枯れよとばかりに泣いていた日々は、もう過去のものにしたはずだったのに。
頭にウィンプルを着け形を整えてしまえば、後は部屋から出るだけだ。暗闇に慣れた目で迷わずドアノブをつかみ、引いた。

「おはよう、シスター・ロクサーヌ」
「おはよう、シスター・マーシャ」

マーシャの部屋の右隣で暮らすロクサーヌはすでに廊下で点呼を待っていた。ベールやウィンプルで隠れていて見えないが、燃えるような赤毛をしている。本人はそれを自慢に思っているのに、隠さねばならないのをひどく不服に思っていた。

「おはよう、シスター・マーシャ、シスター・ロクサーヌ」
「おはよう、シスター・マリーベル」
「おはよう、シスター・マリーベル…今日の畑仕事、よろしくね」

マーシャの左隣の部屋から出てきたのはマリーベルだ。ブロンドで色素の薄い彼女はこの暗闇でもぼんやりと顔が浮かんで見える。日中で彼女を見かけると病人かと勘違いされてしまうのが悩みの種で、「日に焼ければちょうど良い肌になるかもしれない」と考え、畑仕事には特に精を出していた。
今日のマーシャはマリーベルと畑仕事の担当であり、張りきりがちになるマリーベルを(いさ)める役目を担っていた。

そうこうしているうちに、他のシスターたちも起きだして廊下に整列し、班長であるシスター・アルフィネがやってきて点呼を始めた。この〈聖リジョネン=オサ修道院〉の、朝の日常風景だ。
これから皆で礼拝堂に向かい、そこで集団礼拝を行なう。終わったら朝食をとり、午前の日課をこなすのだが、日によって仕事や組む相手が違う。午後の日課も同様だ。とは言え、何年も続けていれば慣れてしまうし、単調で制約の多い修道院生活に飽きて脱走する者もいた。
幸福にも、マーシャは脱走しようとする仲間を止めるような機会はなかった。だがもしそんな仲間がいるとしたら、こう言って止めただろう。

ーー脱走したって、野盗の餌食になるだけよ

礼拝堂に着くと、アルフィネが観音扉をゆっくりと開けた。蝶番がきしむ音と共に、神聖なる礼拝堂から蝋燭の光が漏れる。その真ん中には、小柄で上品な老婦人がーー院長であるシスター・ラノンが姿勢を正して待っていた。

「おはようございます、みなさん」

にこやか、かつ厳かな声に、シスターたちは声を揃えて挨拶を返す。

「今日を皆が迎えられたことを神に感謝し、今日を皆が無事に送れるよう、神に祈りましょう」

その言葉を合図に、シスターたちは各々の席に座る。そこで一斉に朝の聖句を唱え、ラノンによる「では黙想を」の声に目を瞑り、指を組んだ。

マーシャはこの時間にこっそりと、ルネの冥福を祈っていた。本来ならば神との対話の時間であり、修道女が葬式の時以外で個人の冥福を祈ることは禁止されている。

(ルネの魂が、ルネのお父様の魂と共に、天国へ行けますようにーー)

この密やかな祈りは、マーシャが修道院に入ってからずっと続けていて、彼女だけの秘密だった。

「黙想止め、讃美歌の準備を」

アルフィネの硬質な声にマーシャたちシスターは目を開け、指を離し立ちあがる。
ラノンがオルガンの前に向かい、手早く演奏の準備を終え、オルガンを弾きはじめると、シスターたちは慣れた様子で歌いだした。

ーー聖なるかな、尊き御心よ
ーー聖なるかな、深き眼差しよ

朝の礼拝で歌う讃美歌が礼拝堂に響きわたる。もし誰かがこの礼拝堂の近くを通ったなら、どんなに豪胆な者でも神妙な顔をしてそそくさと離れるだろう。清廉な空気が歌を通して漂ってくるものだから。

讃美歌を歌った後は聖書の朗読が待っている。ラノンが朗読し、シスターたちが聞くという形式だが、うっかり船を漕ぐ者もいる。新入りのシスターがよくそうなって、マーシャは何度起こされたか、あるいは何度起こしたかしれない。
これも無事に終え、短い祈りをすませると、それぞれが午前の日課に取りかかろうとあちらこちらへと散っていく。マーシャとマリーベルは畑に植えた果菜類の世話をするため、農耕用具がある倉庫と井戸へと向かおうとした。

「マリーベル、道具お願いね」
「ええ、倉庫で準備して待ってるわ」

倉庫の方が日当たりの良い場所にあることから、マリーベルはいつも倉庫での準備を望んだ。どうしても、という場合はさすがに井戸で水を汲んでくるが、大急ぎで運んでくるので水がよく足りなくなってしまう。なので余程のことがない限り、皆はマリーベルに倉庫を任せていた。

それが結果的にマーシャを陰謀の只中に置く契機となったなど、この時誰が考えただろうか。

マーシャはそのような運命などつゆ知らず、バケツを抱えて井戸まで小走りでやってきた。井戸は薄暗い場所にあり、背後には森が広がっている。ちょっぴり不気味なので、用事がなければ故意に近づいたりはしない。

だから、マーシャは目の前の光景を自分の恐怖心が見せた幻覚だと最初は思った。目を閉じて、深呼吸を数回行うとゆっくり目を開ける。

井戸に寄りかかるようにして男が一人、倒れていた。
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