あなたしか知らない


祐奈はすぐにマンションから引っ越しすることにした。
とりあえず、親友の洋子の家にしばらく居候させて欲しいと頼み込む。

「わかった! まかせて」

祐奈が今にも倒れそうな顔色だったからか、洋子は快く受け入れてくれた。
理由も聞かず、あまり人に頼ることのなかった祐奈のことを心配してくれた。

「ありがとう洋子」
「困ったことがあったら、なんでも言ってね」

洋子の家族も温かく迎えてくれたから、祐奈は広宗との関係を終わらせることに集中した。

母が入院していたから、マンションを片付けるのは簡単だった。
荷物は少なかったし、貴重品はほとんど処分した。
弘宗から毎月お金が送られてきていた銀行の口座は解約し、残金は広宗に返した。
少しは蓄えもあるから、すぐに生活に困ることはないだろう。
大学の単位は取れているから、ほとんど通う必要もない状態だ。
小早川教授に卒業論文を提出しさえすればいいから、凌に会う危険はなかった。



***



広宗との関りを整理しているうちに慌しく年の瀬が過ぎ、新年を迎えて間もない頃に母が亡くなった。
しんしんと底冷えのする日だった。

広宗との約束通りに思い出の本を棺に入れたから、きっと母も喜んでくれているだろう。

(お母さん、ゆっくり休んでね)

火葬場で、とうとう祐奈は号泣した。これまで我慢していた気持ちが爆発したような泣き方だった。

(もう私にはなにもない……)

母の死を広宗に伝えるべきかどうか迷ったが、凌や広宗の妻の立場を考えて思いとどまった。
一度だけ訪問したことのある会社あてに、母が遺したレース編みのテーブルクロスを送った。
無事に広宗の元に届けば、送った意味がわかってもらえるはずだ。

(きっとわかってくださる)

弘宗はあの本を託してくれた時から、母の死を覚悟していたのだろう。
形見の品として、広宗には母の思いが込められているものを持っていて欲しかった。

すべて終わったら、祐奈は気が抜けたようにぼんやりと過ごすようになっていた。
時おりフラフラと冬の京都の街の中を歩くだけの毎日だ。

そんな時、傷心の祐奈を心配した小早川教授が、思いがけない提案をしてくれた。

「カナダにある製薬会社で働かないかい?」

ほとんど大学にも研究室にも顔を見せなかった祐奈を心配してくれたのだろう。
日本にいる意味を失っていた祐奈は、その話に飛びついた。

「ぜひ、紹介してください」

そして大学卒業とともに、祐奈はカナダのエドモントンに旅立った。
泣きながら見送ってくれたのは、洋子ひとりだった。








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