初めては好きな人と。

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 高級ホテルのティーラウンジ。

 利用客の耳に障らないよう控えめな音量に調節されたクラシックミュージックが静けさを演出している。
 ガラス張りの窓から光がほどよく差し込むソファ席に私、土屋美月(みつき)は座っていた。

 両隣にいるのは、私の勤める山崎建築事務所の社長夫妻。社長の奥さんの絵里子さんが成人式で着たという紅白の鶴が描かれた立派な振袖を私に着せてくれたおかげで、見てくれだけは体裁が取れているが、決して居心地のよい空間とは言えない。

 そして、ガラスのテーブルを挟んだ向こう側に座るのは、建築事務所の取引先でもある社長夫妻とその次男の多田野洋二の3人。

 どことなく張り詰める空気の中、 私は印鑑を持つ震える手をもう片方の手で袂を押さえるようにして支えて、どうにか判を押した。

「後は、役所に出すだけですな」

 洋二の父、博史のその声を皮切りに、こちらからは深いため息が、向かい側からは満足げな声と安堵の声が吐き出される。

 ガラスのテーブルに置かれた一枚の紙切れには、「婚姻届」と書かれていて、今しがた私が著名をし判を押したことで完成された。

 そう、これは、仕事の打合せでも商談でもなく、入籍の立ち合いだった。

 目の前の多田野洋二は、人の良さそうな笑顔を顔に浮かべてさっきからこちらを凝視しているが、私は目を合わせる気分になど到底なれずにテーブルに視線を落とすのみ。そんな私の態度が気に入らないのか、洋二の隣に座る夫妻の視線は洋二のそれとは反対に突き刺さるようだった。

 自分たちが、私に言った言葉を考えれば私の態度など仕方のないもののはずなのに、それを理解出来ないどころか、怒りをぶつけてくる人間性には辟易していた。

 そして、その両親の手口を目の前で見ているにも関わらず、へらへらと嬉しそうにこの状況を喜んでいる洋二の頭には怒りを通り越して呆れしかなかった。


 私は今日、ろくに話したこともなければ、お花畑な頭のこの男と結婚する。


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