私的な旋律
甘いメロディ
それから2回ほどだったが少しだけ無理をして瑛子を迎えに行きがてら飲みに行っては、その不動産会社の御曹司と談笑する瑛子を見せつけられた。嫉妬という感情をあらわにはしないし、つとめて冷静でいたつもりだったが、どうやらそのストレスは少しずつ身体にダメージを与えていたらしい。

その寒い冬の日は、朝の時点から瑛子から心配されてはいた。

「博樹のほうが詳しいと思うけど」

そういって差し出してくれたビタミン飲料、それと生姜を入れた煮込みうどんを用意してもらって体を温めて出勤したが、やはり冬の早朝の寒さは過酷だ。

周囲のスタッフに気づかれないように診療にあたっていたものの、わずかな鼻声と咳払いに違和感を持った者もいたことだろう。午後四時を過ぎたあたりからは寒気が加わり背筋がゾクゾクしていて、頭はぼうっとしていた。頭も体もいつもの7,8割程度しか働いていない。
診療後の入力作業などの事務仕事も、いつもよりずっと進むペースは遅く、博樹自身もう仕事をやめて帰ったほうがいいかもしれないとは思っていた。

今日は瑛子がラウンジでの仕事の日だったが、瑛子からも無理をしないように言われていたこともあり、まっすぐ自宅に帰ろうかと更衣室で着替えていたところで博樹はスマートフォンの点滅に気づいた。

「瑛子が今日はとっておきの曲を弾くらしいから飲みに行かない?」

弟からのメッセージが来ていたのだった。
飲みに誘われること自体、疑問を感じずにいられないのに、このメッセージはさらに疑問だ。彼の性格からして何かあるのかと勘ぐってしまう。とっておきの曲と言うのも、何か誘い出すための文句に思えてしまって、それがどの程度の曲で、どのくらいの意味を持っているかは別にしても、真面目な博樹は気にならずにいられない。

更衣室のロッカーの鍵を閉めると、帰り支度は完璧だった。早く帰って栄養を摂ってゆっくり眠れば回復も早いはずだ。具合が悪いことを考えればタクシーで帰ったほうがよかろう。

エレベーターを降りて病院前に停車している一台のタクシーに乗り込むと、寡黙な運転手にどちらまでと聞かれて博樹は迷わず答えた。

「西新宿まで」

頭の中は、そのラウンジで演奏する瑛子の艶やかなシルエット一色だった。
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