殺すように、愛して。
 颯爽と、名残惜しさも物寂しさも感じさせずに出て行った黛は、まだ戻って来ない。俺を放置してどこへ行ったのか、それすらも分からなかった。教えてもらえなかった。俺も、何も聞かなかった。聞けなかった。それでも、服を掴んで引き止めようとしたことが、俺なりの問いのつもりだった。どこ行くの。行かないで。まゆずみ。触ってくれないの。まゆずみ。触って。無意識の行動に秘めた狂気的な感情は、軽く躱され軽く片付けられ軽く潰され軽く捨てられた。彼の後を追うほどの体力は残っていなかった。

 今の俺は無力なため、乱れている息を必死に潜めて、事を荒立てないように息を殺して、また来るからね、という黛の口約束に過ぎない言葉を信じ、良い夢を見られるその瞬間を待つことしかできない。また、が、今日の話なのか、それとも明日なのか、はたまた明後日なのか、明明後日なのか、それ以上の月日が空くのか、何も情報がないのに、俺を自宅まで送ってくれた時点で彼の役目はもう終わったも同然なのに、俺は良い子のふりをして、大人しく、馬鹿みたいに、阿保みたいに、頭の悪さを前面に押し出すように、黛を待ち侘びていた。手を握られ、指を舐められ、噛まれ、水をかけられ、心臓を突かれ、頬を撫でられ、抱き締められ、十分な飴と鞭を与えられたのに、まだ欲しい、まだ足りないと淫らな欲に駆られる。満足したように見えて、俺は満足できていなかった。心も体も穢れたまま。出て行った黛は俺を放置したまま。
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