英雄閣下の素知らぬ溺愛
「聞きました? また例の二人が、下位貴族の令嬢を……」



「見境のない方たちだとは思っていたけれど、まさか王宮の夜会で、なんて。……それにしても、英雄閣下の婚約者のご令嬢は立派な方ですわね!」



「あの二人に襲われそうになった男爵家のご令嬢を庇ってくださったとか。そうそう、出来ることではありませんわ!」



 流れる噂は全て、あの女を称えるものばかり。ぎり、と、奥歯が音を立てた。

 なぜ。どうして。



 どういうこと。誰もいないのを確認しろとあれだけ言ったのに……! あの二人にしてもそう! どうしてあの女だけを狙わなかったの……!



 あの方にエスコートされたあの女が、何事もなかったかのような顔で会場を出てすぐに、名前も知らない男爵家の令嬢が言い出したのだ。女癖の悪いことで有名な侯爵家と伯爵家の令息に襲われそうになり、あの女に助けてもらったのだ、と。

 英雄閣下に相応しい、素晴らしい婚約者だ、と。

 不愉快だった。心の底から。



「ミュレル伯爵に加えて、陛下までいなくなったから何事かと思ったが……。あの二人の素行の悪さは有名だったからな」



「元々、家の方から勘当される話がありましたものね。これでこの国の社交界も平和になりますわ。流石は、英雄閣下の選んだ方」



「本当に」



 そこかしこで交わされる会話。ぞっとするほどの称賛の声。

 なぜ。どうして。こんなはずではなかったというのに。



 何でこんなに役に立たないの……! せめて髪型の一つ、乱してくれていれば、噂の立てようもあったというのに……!



 会場中の注目を浴びていたあの女の髪型だけでも変わっていたならば、誰かがその変化に気付き、噂も少しは信憑性が増したはずだというのに。これでは、噂を立てた方が白い目で見られてしまう。

 何もかもが、上手くいかなかった。



「……大丈夫ですか? 顔色が……」



「ああ、噂をお聞きになったのですね。大丈夫ですよ。陛下があの二人を捕らえているそうですから。貴女が危害を加えられることはありません」



「もし捕まっていなかったとしても、私が指一本触れさせませんけれどね」




 周囲の男たちが心配そうに言うのを聞きながら、慌てて表情を繕い、「まあ、心強いですわ」と嫋やかに微笑んで言葉を返す。男たちはその顔を一気に赤くして、嬉しそうに更に何やら言い募っていた。

 そんな彼らの言葉を笑みを浮かべたまま聞き流しながら、考える。

 もう、遠慮なんてしていられない。



「せっかく命ばかりはと思ったのだけれど。だめね。……ちゃんと、いなくなってもらわなくては」



 小さく呟いた言葉に気付いた者はおらず。深めた笑みに暗い影が滲んだことに気付いた者もまた、誰もいなかった。
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