あの日の誓い
 しばらくの間、書類をめくる音だけが耳に聞こえた。私とハナはじっとしたまま、奥様の様子を眺める。

(奥さんが読みふけっている書類は、ハナが寝込んでしまう内容ばかりだった。どんな気持ちで、それを読んでいるんだろう?)

 私たちと話し合いをしてる最中、悲しげな表情を見せていた奥様は、書類を目にしてから内なるショックを隠すように、能面と表現してもいいくらいの真顔を貫く。

 読み直すためか、何度も書類を行き来させたあと、無言のまま私に書類を向けて返してくれた。

「岡本さんが聞いたというお話は、なんだったのでしょうか?」

「支店にいる、もうひとりのお相手のことなんですが、ご主人が転勤後に彼氏を作ったそうです」

 所長の山下さんから聞いた事実を告げると、奥様は一瞬顎を引き、視線をテーブルに置かれた、手のつけていないコーヒーを見つめる。私の前にも同じようにコーヒーが置かれていて、コーヒーの水面に困り果てた自分の顔が映っていた。

「彼氏がいるというのに、夫が支店へ出張したときに逢っていた……ということなんですね」

 奥様は自分に語りかけるように言い放ち、冷めたコーヒーカップに手を伸ばして口に含む。

「はい。ですので関係は今も続いているかと思います」

「そうですか、斎藤さん以外にも愛人がいたんですね」

 奥様は額に手を当てながら、深いため息をついた。

「彼女の連絡先を知ってます。ちょうどお昼休みの時間で、連絡がとれやすいと思いますが、電話しますか?」

「絵里、いきなりそれはちょっと……」

 ハナはギョッとした顔で私を見るなり、言葉を濁した。

「すべて知ったからこそ、なにもしないより、なにか手を打ったほうがいいんだよ。放置することが一番いけない。今回それをハナの入院で、嫌というくらいにわかったんだ」

「岡本さんの言うとおりね。これ以上、彼女には夫と逢ってほしくはないし。だけどごめんなさい。今は気持ちが整理できなくて、変なことを言いそうなの」

 胸の前に両手を組み、奥様様はつらそうに体を小さく縮める。

「岡本さん、彼女に夫と逢わないように言ってくれないかしら?」

「いいですよ。ほかになにか、伝えることはありませんか?」

 逢わないようにということは、別れを意味する。たぶん、ほかの言葉はないかもしれないものの、一応聞いてみた。

「今はこれしか思いつかなくて。ごめんなさいね……」

「大丈夫です。じゃあスピーカーでお話しますね。なにかあったら、遠慮なく割り込んでください」

 テキパキ告げて鞄からスマホを取り出し、書類にプリントされている携帯番号を打ち込んだ。コール音がしばし流れたあとに、よそよそしさを感じる声色がスマホから聞こえる。

「もしもし?」

「もしもし、遠藤さんの携帯でお間違えないでしょうか?」

「あ、はい。そうですが」

「私、津久野さんの奥様の代理で、お電話しております」

 先手必勝と言わんばかりに、津久野さんの名前を出したら、スマホの向う側で小さく息を飲むのが伝わった。
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