この胸が痛むのは
傍らのアグネスを見やるが、彼女はアンナリーエ嬢、もといアンナリーエ夫人の息子をあやしていた。

ふたりの恋の顛末を事前に教えてくれていたら、とも思うが。
事態を見たまま受け取るように、との配慮かもと思い直す。
パエルとの共通の話題は6年前の隣街の市の思い出だけだし、それ以外に何を話していいのかわからず、夫人の提案を辞退する。


夫人は最初、あの頃のように俺に『フォード様』と呼び掛けていたが。
正直今ではその名で呼ばれたくなくて、どう伝えたものかと悩んだが、察しのいい彼女は直ぐに気付いてくれて、それからは『殿下』になった。
アグネスがその名で呼ばないのに、他の女性には呼ばれたくなかった。


『特別なひとに呼んで貰いたい名前にだけ、拘ればいい』

いつだったか、ストロノーヴァ先生が言っていたのは、こう言う事なんだと実感した。
先生との付き合いは1年くらいしかなかったが、色んな言葉をくれていたんだと、今更ながらに気付く。


時が過ぎて、大切だった思い出も姿を変えていく。
アンナリーエとパエルは別れて友人になった。
馬車の中で『何も聞こえておりません』と、生真面目に答えていた護衛騎士は、職を辞して領地へ帰った。
俺をからかって笑っていたレイは結婚をして離婚した。
あの時の顔触れで集まって笑い合う事はもうないんだ、と思い知らされるけれど。
君だけが変わらずに、俺の側に居てくれる。



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