さよならしたはずが、極上御曹司はウブな幼馴染を赤ちゃんごと切愛で満たす

 金沢市内に戻ってすぐ、光莉はタクシーに乗り込み、幸雄が救急車で運ばれたという市立病院へと向かった。
 移動中、個室に移動したという連絡があり、教えてもらった病室を訪れると、専務の川岸が険しい表情でそこに控えていた。
 川岸が口を開くのを待っていられず、光莉は急いで父の側に駆けつける。眠ったままの父の前に座り、とっさに手をとった。
「お父さん!」
 幸雄は反応を示さない。死んでしまったのではないかと錯覚した。しかし手は温かく、父の手の温もりに縋るようにして、光莉はその手をぎゅっと強く握った。
「大丈夫ですよ。命に別状はありません。さっき、一旦麻酔から目を覚まして光莉さんのことを気にかけていたんですが、少しうとうとしたあと、疲れたのかまた眠ってしまわれました」
 急性心筋梗塞を起こし、緊急で心臓のバイパス手術が行われた、と川岸が説明してくれた。すぐに処置されたことが幸いだったようだ。
「そうでしたか。本当に、無事で……よかった」
 母が亡くなったときのことを思い出してしまった。光莉の指先は冷たく震えていた。
「これから、しばらく入院することになりますし、今後もあまり無理はできないでしょう」
 そういう川岸の表情は暗い。社長が動けない状況では、会社の混乱が目に見えるからだろう。光莉を励ましてくれた川岸だが、先行きを案じる心境はとても取り繕えるものではない。
「川岸さん、このたびは、色々とありがとうございました」
「いえ。本当に、大事に至らなくてよかったです」
「父が倒れる前は……どんな様子だったんでしょうか」
 川岸は少し迷いを見せたあと、幸雄の方を見つめながら口を開いた。
「社長はこのところ思い悩んでいらっしゃって、私も気になってはいたんです。遅くまで働いていましたし、ひょっとすると、心労がたたったのではないかと……会社をこの先どうしていくか考える時期にきていると、しきりに口にしていました」
「お父さんが、そんなことを……」
「ええ。正直な話、経営はかなり厳しい状況でした。今後のことを考えると――」
 光莉は何も言えなくなる。娘に心配をさせまいと言いづらかったのだろうか。無力な自分が悔しくてたまらない。何が次期社長だろう。頼りにされていたのに、たったふたりきりの家族なのに、何の支えにも救いにもなっていなかった。
 光莉は川岸の手前、涙がこみ上げてくるのをひたすら我慢し、震えることしかできなかった。
 しばしの沈黙のあと、川岸が気後れしたような表情を浮かべながら口を開いた。
「こんなときにすみません。話は変わるのですが、先ほど、光莉さんにお会いしたいという方から連絡があったんです」
「私に?」
「……はい。先方にはこちらに戻り次第、連絡をすると伝えてあります。常盤グループの取締役、常盤律樹さんという方です」
「……!」
 律樹の名前を出され、光莉は動揺する。
「私に会いたいって、彼がそう言っていたんですか?」
「ええ。近々こちらに伺いたいので空いている日にちを教えてほしい、とのことで」
 数時間前、東京のホテルのホールで無視した彼が、そんなことを言うなんて信じがたい。否、ひょっとして彼は光莉の方から先にコンタクトをとったから驚いていたのだろうか。でも、そうだとしたら、あのとき知らないふりをした意味がわからない。
「光莉さん?」
 茫然としていた光莉は、川岸に呼びかけられてハッとする。
「あ、ごめんなさい。わかりました。明日、スケジュールを確認次第、こちらから連絡を入れてみます」
 川岸は、お願いします、と光莉に折り返し先が書かれたメモを手渡す。
 川岸を見送ったあと、光莉は再び病室に戻り、眠っている父の傍らに座り込んだ。
「常盤、律樹……」
 光莉はメモを眺め、思わず呟く。
 メモに記載された電話番号は、彼個人の携帯だろうか。それとも仕事用だろうか。
 ふと、窓の外を見る。もうすっかり暗くなってしまい、秋の風景は見られなかった。
 一体、どんな顔をして彼は連絡をよこしたのだろう。

 幸雄が目を覚ましたのは翌日の早朝のことだった。驚かせてすまないと、幸雄はしきりに光莉に謝った。
 一方、光莉はいつものように幸雄を明るく励まし、会社のことには触れないようにした。
 幸雄は詳しい検査と治療のため、二週間ほど入院することになった。光莉は病院一階の事務局医事課で入院手続きなどを済ませたあと、売店で取り急ぎ必要なものを買い揃え、父にまた来ると伝えて一旦会社に戻った。
 一応有給休暇中となっている光莉は出社する必要はないのだが、やはり会社のことが心配だったのだ。専務の川岸に改めてお礼の言葉を伝え、社員や従業員に声をかけて、社長は無事だから安心してほしいと伝えて回った。
 それから、茶屋通りのカフェでお昼休憩をしたあと、光莉はさっそく律樹に連絡を入れた。
 コールが鳴った瞬間から、心臓の音は大きく高鳴り、スマホを握る手に汗をかいた。
 声が聞こえたときには、緊張のあまりに声が上ずった。しかし電話に出たのは彼ではなく秘書の男性だった。会議中だったので転送されたらしい。
 どっと脱力する光莉をよそに、秘書は淡々と用件を伝えてきた。急ぎの話があるので今日の午後空いているようであればさっそく伺いたいと律樹から伝言を頼まれていると言われ、光莉は焦った。いくら近々とはいえ、もう少し先の、数日後の話だと思っていた。
 結局、相手に押し切られ、光莉は会社に急ぎ戻って応接室の準備をした。心の準備の方はまったく整わないままに、あっという間に約束の時間がやってきてしまった。
「――失礼します」
 約束をした十六時頃、光莉が緊張に身を包んで応接室へ行くと、ふたりの男性がこちらを向き、それぞれ立ち上がった。
 この間とはまた違った印象の、ビジネスマンとして清潔感のある装いの彼に目を奪われる。彼のさらさらの薄茶色の髪は頬にかからないように分けて整えられ、そのせいか端整な顔立ちと意思の強さがよりいっそう強調されるようだった。
 動揺を押し隠し、光莉は彼の前に立つ。
 すぐに彼の方から挨拶をしてくれた。
「このたびは、お忙しいところ押しかけてしまい、誠に申し訳ありません。お時間を作っていただき、ありがとうございました」
「いえ。こちらの方こそ、遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます」
 名刺を交換しつつ、光莉は彼の肩書を目で追った。
 常盤律樹、常務取締役・経営企画部部長……グループ会社管理戦略課チーム。
 不意に、パーティー会場で耳にした噂話が蘇ってくる。光莉はそれを打ち消し、頂戴します、と名刺を側に控えた。
 律樹の隣に控えている男性は、電話で対応してくれた秘書だった。落ち着いて見える彼は、年齢は三十代後半から四十代前半くらいだろうか。電話口で感じた押しの強さはなく温厚そうな雰囲気がある。人の印象というのは、電話の声だけで判断はできないものだな、と思う。
「どうぞ、おかけください」
 光莉はふたりを着席するよう促す。
「ありがとうございます。さっそくですが、本日は、山谷食品の今後について、お話をさせていただければと思います」
 律樹はそう言い、光莉が腰を落ち着けるのを待ってから、秘書から渡された資料を目の前に広げた。
「え、あの、待ってください。うちの今後とは、一体どういうことですか? 社長はただいま不在なのですが……」
 光莉は身を乗り出すようにして問うた。
 山谷食品の今後――という不穏な言葉に、光莉は川岸と話をしていたことを思い浮かべ、たちまち嫌な予感を抱いた。なぜ、社長をさしおいて光莉にそんな重大な話を持ちかけるのか、彼の意図がわからない。
「山谷社長には、以前より会社の譲渡について提案しておりました。御身に何かあれば、娘さんがいるという話を伺っておりましたので、このたびこうして時間を作っていただいたのです」
 律樹が淡々と語る。その声色には温もりが感じられない。当然のように、あくまでビジネス相手としてそこにいるのだ。それ以前に、幸雄の身に起こったことを既に知っていて光莉に会おうとしたその魂胆に戦慄が走った。
 光莉の顔からは血の気が引いていた。
「それは本当ですか? 本当なら父から私に話があるはずです。私は父からは何も聞いていません。申し訳ありませんが、日を改めていただけませんか?」
 幸雄から何も聞かされていないどころか、川岸からもそんなことを聞いていない。完全に彼らの思惑に落ちたように思え、光莉は追い詰められた。
「日を改めるような余裕が、今の山谷食品にあれば、ですが」
 律樹が険しい表情でそう言い、おもむろに資料を一枚ずつ捲る。静かな応接室に無機質な紙の音が冷たく響き渡った。
 光莉はとてもその資料を見る気にはなれなかった。
「随分、含みのある言葉ですね。それは、どういう意味なのでしょうか?」
「はっきりと申し上げます。このままでは御社のこの先の資金繰りはだいぶ苦しいかと思われますよ。どうやら方々で融資も断られているようですしね。資金ショートまで時間はあまりないと見えます。あなたは、何も知らないようですが……」
 律樹の不躾な物言いにさすがに光莉はカチンときてしまった。
「勝手に色々と調べられたようですが、弊社の経営に関することは、社長以外に専務の川岸が対応しているはずです。なぜ、わざわざ私に話を持ってきたのでしょうか?」
「なるほど。これは会社のことであって、自分には関係ない、他人ごとだと?」
 律樹の鋭い指摘に、光莉は言葉を詰まらせるものの、それでも黙っていられる性格ではなかった。
「そんなつもりで言っているわけではありません! 他人ごとなわけないじゃないですか。私は社長の娘なんですから」
「そうですよね。先日もお父様の名代を務めていたようですし」
 律樹の表情からは、あの創業記念パーティーのことを言いたいのだと読み取れた。
「社交の場では、もちろん代理になることはあります」
「ならば、代理のあなたに話をしても構わないのでは。山谷社長もあなたに会社を任せるつもりにしていたようですから」
「それは……っ」
 いつかは、という話だった。
「いつかは……とお考えだったんですね」
「……っ」
 じりじりと追い詰められ、光莉はとうとう言葉を失う。
「その、いつかは、ある日突然訪れるものですよ」
 律樹は慈愛とも憐れみともとれない複雑な表情を覗かせている。意味ありげな彼の言葉に、光莉は何と言ったらいいのかわからなくなる。氷のように冷たい刃が次々に喉の奥に流し込まれてくるみたいだ。
「うちの傘下に入るか、それとも倒産するか、二択なら、みなさん迷うことなく前者をとりますよ」
 傲慢な彼の物言いには納得ができない。光莉はますます苛立ちを募らせる。このまま好き放題に言われて、頷けるはずがない。
「他のみなさんのことは知りません。だいたい、うちが欲しいというのなら、山谷食品が生み出してきたブランド商品を一体どんなふうにお考えなのでしょう?」
 山谷食品は従業員数が百人にも満たない小さな会社だが、石川県の地元の食材の味を活かした商品を幾つも生み出し、県内での人気はもちろん全国的にも展開し、根強い人気があるのだ。
「ブランド、ですか」
 律樹は少し考えるような顔つきになる。
「はい。たくさんの顧客が必要としてくれている、大事なブランドです」
 秘伝のレシピ、伝統の製法があるからこそ、山谷食品は魅力的な商品を生み出すことができ、顧客に愛されてきた。そこに着目してくれる企業が多かったのはたしかだ。だからこそ、常盤グループも山谷食品に目をつけた。以前は両社の共同開発コラボを実現し、双方にとって多大な利益をもたらしたはずだ。
 自信を持って豪語する光莉をよそに、律樹はため息をつく。
「しかしブランドは価値のある状態だからこそブランドだといえるんですよ」
「今はその価値がないとでも言いたいんですか?」
 老朽化した生産工場を廃止し、事業の拠点を東京に移してブランド名を変更するという書類の文面を目にし、光莉は憤りを感じながら律樹を糾弾した。
「どうやらお嬢さんは状況が全くわかっていないようですね。単刀直入に申し上げましょうか」
 律樹はそう言い添えてから、冷たい眼差しでこちらを見据えた。
「君が社長の器として成長するまで、果たして山谷食品は持つだろうか。俺はその心配をしているんだ。専務の川岸さんなら、こちらの傘下にくだることを希望していた。彼にはそれなりのポストを用意すると約束した。彼は喜んで頷いてくれたよ」
 急に口調を変えてきて本性を見せた彼に気をとられるよりも、後者の事実に光莉は焦った。
「待ってください。川岸からはそんなこと聞いていません」
 川岸は山谷食品の社長である幸雄の右腕だ。家族経営以前に、彼がいなくなったらどうにもならない。
「いいや、言っていたよ。君の手前、言いづらかっただけだろう。山谷社長の右腕として、危機感は誰よりも強かったと思うよ。そんな彼を責められるのかな?」
「……っ」
 光莉は病室で暗い表情を浮かべていた川岸のことを思い出していた。彼は明らかに今後のことを憂いていた。
 重たい沈黙が横たわる中、見かねたように秘書が口を挟んできた。
「けっして悪い話ではないと思いますよ。M&Aによる事業および会社の売却では、会社や工場と従業員の雇用関係がそのまま引き継がれますし、問題なく会社を存続させられます。資金繰りが大変な現状、御社にとってメリットの方がずっと多いはずですよ」
「そう。君が目くじらを立てる必要はないんだ」
 律樹は光莉を追い込むように言い添えた。
 たしかに山谷食品の経営の窮地は救えるかもしれない。けれど、失うものだってきっとそれ以上に多い。相手は、自分たちが欲しい部分だけを都合よく奪おうとしているのだ。生産地やブランド名を変えてしまったら、山谷食品にはもう何も残らなくなってしまう。
 光莉はこれまで積み重ねてきた山谷食品の歴史を思い、ギュッと拳を作った。
「おっしゃりたいことは理解しました。ですが、ブランド名を変え、拠点を東京に移す……という話のどこにメリットがあるのでしょうか」
「大事なものを守るためには、どうしても捨てなければならないこともあるとは思いませんか? 金沢の工場を畳み、常盤が所有する東京工場での大量生産に切り替えることで、コストは今までよりずっと抑えられるでしょう。従業員についても、たとえば、希望者には常盤グループの会社に雇用することを提案させていただく予定ですよ」
 律樹はさも当然のように言う。彼の方こそ大事なことが分かっていない。光莉はもどかしさを募らせながら反発する。
「そういうことじゃないんです。捨てられないほど大事なものがここにはあるんです。今までだって、東京の会社とは業務提携をしてきましたが、どこの傘下にも入るつもりはありませんでした。なぜなら、代々地元金沢の産業を盛り上げたいと立ち上げた事業を受け継いで、地元に根付いた企業でありたかったからです。たとえ会社が傾いても、その理念に背くことはできません」
 社長の代理なのだから、これだけは絶対に伝えなくてはならない。
 頑として譲れない考えを伝えると、しばし睨み合いの状態になったあと、律樹が静かにため息をついた。
「これでは堂々巡りですね。ここまでわからずやのお嬢さんだとは思いませんでした」
 律樹にそう言われ、光莉は唇をかみしめて、彼をまっすぐに見た。
 どうして彼とこんな話をしなければならなかったのだろう。少しでも期待をしてしまった自分を心から悔いた。
「少し、深呼吸をして」
「なんですって?」
「ほら、今の君はまるで敵を睨む戦国武将のような顔つきだ」
「は……?」
「美しい理念を活かすのも殺すのも君次第だ。いいかい? 生き延びるために必要なことは、どんな手段も選ばずにいる姿勢だよ。状況的にこちらの申し出を断るような立場ではないということをもっと理解してほしい。うちが手を引いたとしよう。しかしそのあと、残された城は滅ぼされるだけ」
「――よくわかりました。つまり、合意しなければ、うちを徹底的に潰すと言いたいんですね。回りくどい説明をしなくても、元からそのつもりだったんじゃないですか?」
 幸雄の様子がおかしかったのも今なら納得できた。父を追い詰めたのはまぎれもなく目の前の彼。その事実に、胸が押しつぶされるような想いになる。
 幼かった頃、私が彼の味方でいたように、彼だけは私の味方だ……とずっと思い込んでいた。初恋は初恋のままの方がよかった。
 あの日のことは忘れなくてはいけない。すべて塗りつぶして、そして塗り替えていくべきだ。彼は、もうあの頃の彼ではない――。
 絶望に打ちひしがれていたところ、律樹は小さくため息をついた。
「君は何か勘違いしているよ。今の君はただ感情が高ぶっている幼い子どもだ。社長の娘でもなんでもない。何かを敵だとみなさなければ、心の安寧が保てない。そういう状況だろう」
 律樹の意地悪な言い方に、光莉は即座に反発した。
「卑怯者で無神経なあなたに言われたくないわ」
 涙が溢れそうになるのを我慢し、彼をまっすぐに睨みつける。彼は意表を突かれた顔をしたあと、その表情をやわらげた。
「聞いてくれ。俺は、君と戦うためにここにいるんじゃない。卑怯な手を使いたくはないし、山谷食品を潰そうだなんて思ってない。守りたいんだ」
「……っ」
「守るために必要なことなんだ。君は、一時の感情で一番大事なものを失うのか? プライドはそんなに必要なことなのか?」
 真摯な律樹の訴えに、光莉は言葉を失った。
「私は……」
 幸雄をはじめ社員や工場の従業員たちの顔が思い浮かんだ。ささやかながらも温かい会社をこの先も盛り上げていけるようにしたかった。だけど。
 悔しいけれど、今の光莉は幸雄の代わりに社長を務められるような器ではない。こんな不安定な状況では社員が離れていくのも無理はないだろう。たしかに彼の言うとおり、虚勢を張っているだけでは、山谷食品を守ることはできない。
 迷った末に、光莉は律樹に改めて問うた。
「守ってくださるんですね。うちのブランドに希望を見出したからこそ」
「ああ。そして決定権は俺にある。だから君と直接話をしに来たんだ」
 やっと、律樹の真意が見えた気がした。
 光莉は縋るように彼に確かめた。
「やっぱり、あなたは、あの……りっちゃんよね?」
 すると、面食らった顔をした彼は一拍置いたあと、少し席を外してくれないか、と秘書に声をかけた。
 秘書はすぐに「失礼します」と応接室を出て行く。
 ふたりきりになってから、少しの沈黙のあと、律樹が口を開いた。
「いいかい? 山谷食品はこのままでは資金ショートで倒産するだろう。そんな状況の会社を見捨てず、わざわざうちが手を差し出す理由を考えてほしい。君がいうブランドがこのまま潰えるのはもったいないと思っているからだ。うちならば、ただ立て直すだけではなく、今まで以上にもっと活かすことができる。叶えられなかったことが叶えられるようになる。それを上に通した」
 律樹はそれからドアの向こうにいる秘書を気にするように声を潜めた。
「さっきのは全部、上を納得させるために必要なパフォーマンスなんだ」
 事情を知った光莉は目を丸くする。一枚岩ではないということなのだろうか。
「この件を任せてもらえるなら、ブランドを守れるよう、俺がなんとかする。俺は……君を助けたいんだよ」
 やはり彼は、昔のまま……やさしい彼なのだ。そんなふうに希望を見出しかけた光莉に、彼は信じがたいことを口にした。
「但し、条件がある」
「条件?」
「君には、俺と結婚してもらう」
「――結婚!?」
 茫然とする光莉を、律樹はただまっすぐに見つめた。彼が決して冗談で口にしたわけではないのだと、暗に示すように。
「東京にきてもらうことになるし、常盤家に入ってもらうことになる」
「そんな。待って、待ってよ」
「ただ、数年我慢してくれれば、君をこちらに戻すことも考えられなくもない」
「どういうこと?」
「こちらにも諸々事情があってね」
「事情って……?」
 律樹は渋々とだが、声を潜めて言った。
「俺が中三のときに母が亡くなって、父に引き取られた。大学卒業後には父の会社に入りさえすれば常盤家から出られるはずだった……しかしあとになって父に跡継ぎになってほしいと言われた。俺でなければならないのだ、と」
 離れている間に、そんなことになっていたなんて知らなかった。
 光莉はパーティー会場で聞いた噂のことをまた思い出していた。愛人、養子という言葉が脳裏をよぎった。
「俺にはその気がなかった。父は一度こうという道を決めたら譲らない、その上、執着心の強い人間だ。だから今度は俺の方から条件を出した。父の後を継ぐ代わりに、山谷食品を守ること、社長の娘である君と結婚すること、そのふたつを、ね」
「どうしてそんなことを……?」
 守りたい、と律樹が言った言葉を、光莉は思い返していた。彼はもうその疑問に答えることはしなかった。そして時計に目を留めると、手元の資料をまとめて光莉に手渡した。
「長居してしまったな。とにかく、よく考えてみてほしい。まだもう少し時間はある。無論、そうなった場合、山谷社長にも改めてきちんと挨拶をさせてもらうよ」
 律樹はそう言い残すと、光莉が慌てて引き留めようとするのを待たずに、踵を返した。
 ひとり残された光莉はその場から動けずにいた。
 山谷食品を救う代わりに、彼と結婚する。つまり政略結婚を求められた、ということだ。
「どう、すればいいの」
 光莉は頭を抱えるようにソファに座り込んだ。

* * *

 山谷食品のオフィスから離れたあと、秘書が手配してくれていたハイヤーに乗り込んだ律樹は、みやげと一緒に手に持ったままだった紙袋の中を見た。
「すっかり話し込んで、これを渡すのを忘れてしまった」
 というよりも、渡すきっかけを失ってしまった。あんな話をすれば、光莉が冷静でいられるはずがないと律樹はわかっていたつもりだった。
 回りくどい言い方をしない方がよかったのだろうか。しかし現実を突き付け なければ、きっと彼女は納得しないだろう。
 それでも、涙を浮かべていた光莉のことを思うと、何ともいえない気分だった。
「戻りますか?」
 秘書に問われたが、律樹は頭を振った。
「いや、いい。またすぐに会うことになるだろう」
 微かに空いた窓から、金木犀の香りがした。
 懐かしい匂いに目を細め、遠い過去へと思いを馳せる。
『りっちゃん』
 幼かった彼女の声が、愛しかった記憶が、蘇ってくる。

 橙色の小さな花びらがひらひらと舞い、彼女の艶やかな髪に止まった。
 青い空から光が降り注ぎ、甘やかな香りが漂う中、その人はこう言った。
『――あたしが、これからもずっと、りっちゃんを守ってあげるから』
 いじめられて泥だらけになった姿のまま泣いていた『僕』は、ただ哀しくて情けなくてこのまま消えてしまいたいと願っていた。
『ね、やくそくよ。だから、もう泣かないで』
 彼女がハンカチでさしく頬を拭ってくれた。僕は涙に濡れた目のまま、おそるおそる彼女を見上げた。
 そこには侮蔑や憐れみの眼差しなど存在しなかった。そればかりか、慈愛や希望の色に満ち溢れていた。
 僕は息を呑んで彼女を見た。意味もなく様々な神様を崇拝する人の気持ちが、このとき少しだけわかった。
 神様なんて元々信じていなかったけれど。でも、この世にひとりだけはいるのだと思う。それは目の前の彼女だ。
 彼女の笑顔はまるで物語に登場する女神のように美しく清らかで……安直な表現かもしれないけれど、ただただ――とても綺麗だった。
 差し出された手に縋りつくことしかできなかった僕は、絡め合った指先に強く願いを込めた。
 やさしい君がこの先どうか傷つくようなことがありませんように。君がずっと健やかでいられますように。
 そして、僕は同時に決意表明をする。
 もっと強くなろう。君を守れる大人になろう。
 もしもこの先、君が僕を必要とするときがきたら、傘となり、盾となり、陽だまりとなれるように。
 僕を救ってくれたやさしい君が、これからもずっと笑顔でいられますように。

「君は……あの頃から、変わらないんだな」
 律樹は小さく呟く。
 けれど、『俺』はもう、あの頃の『僕』ではない。
 しかしだからこそ、今の自分にはできることがある。それをいつか彼女にも知ってほしい。

* * *

 あれからも光莉は会社と病院を往復し、時間を見つけて父を見舞った。その傍ら、光莉は律樹との政略結婚の話を、父に話すか否か悩んでいた。
 バカ正直にありのまま話せば、真面目な父はきっと反対するだろう。会社の資金繰りや今後の対応について倒れるまでひとりで抱え込んでいたのだ。この件でまた激しいショックを受けてしまうかもしれない。それだけは避けたい。
 ひとり娘としてできることは何だろう。
 光莉は延々と考えた。
 律樹の言葉を信じていいのか、それとももっと別の方向性で何かできることはないのか。
 川岸に話をしたところ、律樹が言っていたことの事実確認が取れた。気まずそうに目を合わせてもらえなかったことに、光莉はショックを受けた。社員や従業員が皆どこか不安そうな顔をしていることも気がかりだった。
 律樹からの提案は、いわば一筋の蜘蛛の糸のように垂らされた、希望だ。しかし同時に、安易に飛びつけば真っ逆さまに落ちていくような底の見えない闇への恐怖を感じた。
 律樹の言うことを真に受け、信じていいだろうか。
 常盤家に嫁入りしたあとの自分が想像できない。数年後に金沢に戻すことも考えると彼は言っていた。時期が過ぎれば別居するということなのか、離婚するということだろうか。彼側の事情もまだ詳細を明かされてはいない。
 光莉は毎日毎日考え続けた。そうこうしているうちに、じきに融資の件で電話が鳴りはじめ、迷っている時間はないことを思い知った。
 そして、とうとう光莉は決意する。なりふり構っている場合ではない。
 一週間後、律樹に直接アポイントメントをとり、彼の指定する場所へと赴いた。そこは東京の一等地に位置する料亭だった。
 実は、光莉はあることを相談しようと思っている。会社のことも含め、頼みごとをする立場ならこちらから向かうのが筋というものだろう。何よりこれは、双方の密談になる。誰もいないところで話したかった。
「――それで、君の気持ちは決まったかな」
 個室に通されてから、挨拶をする間もなく、律樹はそう問いかけてきた。
 光莉ははっきりと頷く。
「山谷食品を残せるなら……あなたの出した条件に同意します」
「そう。理解が早くて助かるよ」
 律樹は表情こそ緩めないものの、ほっと胸を撫で下ろしたように言った。彼にもきっと背負うものがあるのだろう。それは一緒にいるうちに知ることができるのだろうか。
「その前にお願いがあるんです」
「何?」
「父には、政(こ)略(の)結(こ)婚(と) で余計な心配をかけたくありません。ビジネス上のことがきっかけだったとはいえ、旧知の仲でお互い気が合った……ということで話を合わせていただけませんか」
「わかった。ならば、そういうことにしようか。それと、会社の件についての根回しはこちらできちんとしておくよ」
 あっさりと律樹は承諾した。そんな彼の態度に、光莉はホッとする反面、寂しく感じていた。
 秋に出逢い、秋に別れ、そしてまたこの季節に再び出逢った。季節が巡るたびに恋焦がれてきた、あの頃の思い出を失いたくない。そんな気持ちが沸き立ってきて、光莉は思わず、もうこの先二度と呼ぶことが許されないかもしれない呼び名を口にした。
「りっちゃん」
 口にするたびに嬉しくて、そして泣きたくなるその名を――。
 律樹が反応を示した。戸惑っている様子でこちらを見つめ返す。けれど、彼はもうこの先「ひかりちゃん」とは二度と言ってくれないのだろう。
 連絡が途絶えたときに、どうしてもっと真剣に彼を探さなかったのか、今になって光莉は後悔していた。彼に何があったのか、知っていたらよかった。きっと彼は自分の身に何が起きていたのか、詳しく教えてくれる気はないのだろう。拒絶の空気が伝わってくる。
「君が俺に何を求めているかは知らない。あいにく俺はもう……あの頃とは違うんだ。わかってくれ」
 物憂げに律樹は言った。咎める口調ではあるが、先日のようなとげとげしさはない。
 光莉は彼の方の事情を知りたいと思った。会社ではない場所で、ふたりきりの今ならビジネスを抜きにして話を聞いてもいいだろうか。
「パーティー会場で、どうして知らないふりなんかしたの?」
「あの会場には、取引先や常盤家の人間がたくさんいた。迂闊に親し気な様子を見せると、君に取り入ろうとする者やあらぬ噂を立てる者が現れかねない」
 律樹は険しい表情のまま言った。光莉は噂話をしていた女性たちのことを思い浮かべた。律樹は光莉を巻き込まないようにしてくれたということだろうか。
「幼い頃、君にはたくさん助けてもらった。あの頃の俺なら……君に政略結婚なんて卑怯な真似を持ちかけるわけがないさ。これが、君に助けてもらった恩返しとは言わない。一種の恩着せがましい行為だと思ってくれても構わない。ただ真実としていえるのは、今の俺は常盤家当主の息子で、目的達成のためならどんな手段も選ばない人間の血が通っているということだけだ――だから、君も過去のことは忘れて、早々に割り切った方がいい」
 そう語る律樹には先ほど見えたと思った戸惑いも少しの動揺も滲んでいない。淡々と語る彼の言葉に、光莉は何も言えなくなってしまった。
(私は……何を望んでいたの)
 律樹が昔の思い出を今でも大事にしてくれていて、これから先もそれは変わらないでいることを勝手に期待していた。けれど、彼は義理を果たしただけ。そこに思慕はないのだと突き付けられた。
 少し散歩をしようと、律樹に料亭の中庭へと案内される。長身の彼の後を追い、歩いていると、ある香りに引き寄せられた。
 金木犀の香り。いつも過去に置き忘れてきた初恋を思い出させる、あの恋しい香りだ。
 誘われるように視線を動かすと、彼の薄茶色の髪や、彼のポケットチーフのところに橙色の花弁がついていた。
 ほとんど無意識に、吸い寄せられるように、光莉は彼の胸もとへ指を伸ばす。
 ふと、近距離で視線が絡み合う。色素の薄いガラス玉のような澄んだ瞳が、懐かしい過去を連れてくる。
 ああ、やっぱり彼だ。けれど、もうあの頃の彼はいない。何度も、何度も、心に刻む。
 光莉は泣きたくなるのをこらえながら、律樹に微笑みかけた。
「もっと別の形で、りっちゃんに会いたかった」
 そしたら、それこそ初恋が恋として実ることがあっただろうか。過去とリンクした金木犀の香りが、光莉にそんな幻想を抱かせる。しかし、幻想は幻想のままだ。わかっている。
「……っ」
 律樹が息を呑む。視界が揺らぐ。彼が口を開こうとするのを遮って、光莉は続けて言った。
「もう何も言わなくていいよ。でも、私からこれだけは言わせてほしいの。守ってくれようとしてくれてありがとう」
 事実として彼は救ってくれようとしている。彼の背景は知らない。知る必要もない。
 光莉が守りたいものは、最愛の父と大事な山谷食品という会社。それに関わる人たちのこと。
 初恋は、初恋のままだからこそ、美しいものなのだと胸に秘めて、仕舞いこんだ。

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