彩国恋花伝〜白き花を、麗しき紅い華に捧ぐ〜

世奈side

 もう、瞼を開けることさえもできない。
 背後から、私と同じように呪文を唱える声が、心地よく耳に響いてくる……。
 
(コウだ! コウが、私の呪術に力を貸してくれている)

 ホン家への呪いは、解けただろうか? 美咲さんは、元の世界に帰れただろうか?

 ギギギーッと扉が開いて、誰かが入ってきた。気配や音は感じられるけれど、身体はもうピクリとも動かない。

 呪文を唱えるコウの声は途切れ、
「マヤ様!」と声をあげている。入ってきたのは、マヤ様のようだ。

(マヤ様、未熟な私が呪術だなんて、勝手なことをしてごめんなさい……。どうか、許して下さい。)

「世奈〜〜っ!」

(えっ、美咲さん?)

 足音が近付いてきて、濡れた柔らかな生地が私を抱き締める。
 
(美咲さん、まだこの世界に……)

 コウの呪文の声がまた始まり、マヤ様の力強い祈りの声がそれに重なる……。

 全身があたたかい光に包まれ、瞼の向こうが眩しく照らされているのが分かる……。
 この眩しさは、あの時と同じだ。
 
(良かった〜。これで、美咲さんは元の世界に帰れる……)

「世奈! 世奈ーっ!」

 美咲さんが、私を呼んでいる。
 迷惑ばかり掛けてしまったのに……、
 美咲さんと仲良くなれて良かった……。
 もっと、一緒に居たかった……。
 もっと、話をしたかった……。
 美咲さん、美咲さん、さようなら……。

「白線の後ろに下がって……」
 
(えっ!)

 突然、美咲さんの声が、騒ついた駅のアナウンスに変わった。

 身体の中に意識が戻り、瞼がパチっと開く。

(まさか、あの瞬間に戻ってるの?)

 勢いよく入ってくる電車の運転手が、私を見て仰天している。
 身体は既に、ホームから落ち掛けている。

 その時、あの映像が見えてきた。

 幼稚園の園庭……。これは、走馬灯のように映し出される私の人生だ。

「はいっ、せなちゃん」

 園児で賑わう砂場で、友達のめいちゃんが私にバケツを渡している。取り合いになるほど人気のある赤いバケツだ。私のお気に入りだということを、めいちゃんは知っていた。

(友達に、優しくしてもらえたことも、あったんだ……)

 この煌びやかな光景は……、小学五年生の時の音楽会だ。
 ピアノ伴奏を無事に終え体育館を見渡していると、保護者席の一番後ろに立っていた担任が満面の笑みで拍手を送ってくれている。
 
(忘れていた、こんなに嬉しい瞬間があったことを忘れていた)

 家族で、私の誕生日パーティーをしているシーン……。
 塾に向かう途中のコンビニで、友達とおにぎりを食べているシーン……。
 高校の友達と、話題になっている映画を観に行ったシーン……。

 次から次へと流れるどの場面にも、幸せだった瞬間が映し出されている。

(楽しいこともあったのに……。
 私は……、
 自分が傷付いたことや苦しいことが大きくなり過ぎて、大切なことが見えなくなってたんだ!)

“死んだら楽になるよ!”
 
(この声は……)

 映像が終わるのと同時に、耳元で誰かが囁いた。
 生きていることが辛いと思い始めた頃から何度も聞いていた声だ。
 ずっと、私の心の声だと思っていた。
 
(違う……。 心の声ではない!)

 ずっと、私の中から聞こえていた声が、今は、外から聞こえてくる。
 
(この声は……、この声はいったい誰の声なの?)

 思い切って、その声のする方を確認してみる。
 
(えっ!!)

 衝撃と共に、止まっていた時間がまた動きした。

 その声の主は、川原で身投げをした少女と一緒に居たあの黒い物体達だ。
 
 とっさに、死にたくない! と、思った。

(この人達の仲間になりたくない!)

 けれども、浮いた身体を思うように元に戻すことはできない。

“早く、こっちにおいで!”“死んだら、楽になるよ〜”

 腐った肉体を持ち、恐ろしい形相をした悪霊達が、私に微笑み掛けている。

「キャーーーッ!」

 死を拒絶する思いが、悲鳴になった。

 遅かった……。死んでも終わりじゃないということに、気付くのが遅かった……。
 生きていれば人は変われるということに、気付くのが遅かった……。
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