大正浪漫 斜陽のくちづけ

六章 嫉妬

 結婚して一か月ほど経ち、少しずつ新生活にも慣れてきた。
 相楽に対する不信感からぎくしゃくした気持ちはあるが、彼なりに凛子を気遣い大切にしようとしていることは伝わる。

 だからこそ辛くなる気持ちもあるが、なるべく周囲に悟られないようにふるまっていた。
 多忙の相楽は家を空けることも多く、最初はどうやって一人の時間を過ごしたらよいかわからなかったが、庭師の手配や、ひっきりなしにやってくる出入りの商人との付き合いなど妻としてやるべきことはあった。

 なにしろ勝手がわからないからなにをするにも要領が悪い。
 使用人たちに助けられながら、少しずつできることを増やしている。
 実家にいた時は、家のことを決めるのは姉の役目となっていたが、嫁いだからには人に任せず自分が取り仕切るべきなのだろう。

 まだ自分の荷物の整理も終わっていない。
 蔵での作業に没頭しているうちに、いつのまにか日暮れ時になっていた。
 外からひやりとした風が吹いて、凛子は寒気を覚えてぶるりと震えた。外を見ると暗雲が立ち込めている。

「もう夕方ね」

 蔵を出て自室に戻ろうとする凛子に女中が声をかけた。

「奥様。旦那様にお客様なんですが、いかが致しましょう。不在と申しましたら奥様でも構わないとおっしゃっているんです」
「私が聞きます」

 急ぎの用件なら取り次がなければいけないと思い、応接間に通してもらう。
 凛子が遅れて部屋に入ると、中にいたのは以前、相楽の事務所で会ったことのある市村という男だった。

「お久しぶりです」
「あいにく夫はいませんの。私でよければ話を伺います」

 ──あのなんとも言えない嫌な感じの人……。
 相楽に盛んに一緒に仕事をしようと誘って、断られていた人だった。

「いえ、今日はあなたに話があります」

 なんの接点もないはずの凛子になんの話だろう。
 笑みを浮かべてはいるが瞳の奥が笑っていない。嫌な予感がして、部屋に通さなければよかったと後悔していた。

「ご用件はなんでしょう」

 市村は卓子の上に、ぽんと書類を置いた。

「これを買い取ってほしいんです」

 突然なにを言い出すのか。
 あまりの不躾な態度にどういう意図か理解できないでいると、

「これはね、あんたの親父がもみ消した事件を記者が取材した時に書いたものです。ボツになったのを買い取ってきたんだ。なかなか面白いことが書いてある」

 真一郎とのことを書いた記事に違いない。早い話が強請りだ。あまりの悪意に血の気が引いた。

「なにをおっしゃりたいのか、わかりません」

 記事になっていなくとも、すでに噂は広まっており、今さら隠したところで無駄な話だ。

「すぐにでも金が必要なんだ。相楽に頼まなくても多少の金は自由になるだろう」

 凛子が応じないとわかると、口調と目つきががらりと変わる。
 わざわざ夫の不在を狙ってやってきた陰険さを思うとぞっとした。
 ここで金銭を払ってしまったら味をしめて、ずっとたかりにくることは目に見えている。怯えを顔には出さずに、毅然とふるまうしかない。

「ご期待には添えません。私のことなどもう世間の関心はないでしょう」
「そうかな。少なくとも今は相楽との結婚で注目されている。それに、あんたの知らないことも書いてあると思うが、どうだろう」

 椅子から立ち上がり、近づいてくる。怯えた顔をこの男には見せたくない。
 凛子が知らないことがあるという言葉に引っかかるが、気にしたら相手の思う壺だ。
 お金のためにいい加減なことを言っているだけに違いない。

「お引き取りください。夫に言っても無駄です」
「はははっ。相楽が気に入るだけある。ただ気の弱いお姫様ではないようだ」

 市村をきっと睨みつけ、席を立つと、扉を開け放って帰れという意思表示をした。

「また来ますよ。その前に一つだけ」

 構わず市村が続けた。

「あんたはあの日、薬で眠っていた。現場にはお父上も遅れてやってきたのは知ってるか」

 思わず振り返る。そんな話は聞いていない。
 地元の消防団が凛子を見つけ、警察に保護されすぐに入院したはずだった。
 真一郎は、薬の量が多く助からなかったと聞いた。

 ──お父様が来た?
 現場にいたなどというのは初耳だった。
 一瞬考えてから、こんな男の言葉に惑わされてはいけないとすぐに思いなおした。

「この文書にあるのはほんの一部でね、まだ続きがあるんだ。あなたにお支払い頂けないなら九条の家に行く。内容が内容だけに、借金してでも払ってくれるかもしれないしな」

 記事を卓子に残したまま、、挨拶もせずにそのまま出て行った。
 凛子は混乱した。心臓の鼓動が跳ね上がる。
 ──一体なにを言っているんだろう。

 心臓を鷲掴みにされたように、その場に固まって動けなくなる。

「お金欲しさに、思わせぶりなことを言っているだけよ」

 思わずひとりごちたが、不安な気持ちは広がるばかりだ。
 混乱した頭を落ちつかせるように、凛子は大きくかぶりを振った。
 気にしなければ済む話だ。
 ──帰ってきたら遼介さんに相談しよう。
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