禁断×契約×偽装×策略
――六年前、春。

「やっと終わったー。もう引っ越しなんてヤだよ。前も思ったし!」

 母の綾子はなにも言わずにっこりと微笑んでうなずくだけだ。

「まぁ、ほとんど実康おじさんが手配してくれた引っ越し屋さんがやってくれんだけどさぁ。でも、どうして引っ越ししなくちゃいけなかったの?」
「雪乃の通う高校の近くがいいんじゃないかって」
「実康おじさんが?」

 綾子はまたうなずいた。

「おじさんの考えてること、ぜんっぜんわかんない。通う学校にいちいち引っ越してたらさぁ、引っ越し代もったいないよ。あー! もしかして、大学に受かったら、また引っ越しとか? ソレ絶対ヤだよ!」

「三年後、どうなってるかしらねぇ」
「えーー、お母さん、引っ越しする気でいるの?」
「どうかしら」

 ふふっと柔らかく笑う母の顔は、顔色こそよくないが幸せそうだ。いつもそうだ。実康おじさんの話をしている時の綾子はとても幸せそうな顔になる。

(やっぱり好きだからよね。絶対いとこなんかじゃないよね。でも、いい。お母さんが実康おじさんの愛人で、私は愛人の娘でも。こんなに幸せそうなんだから)

 綾子の顔を見ながら、雪乃はようやく片付けの終わった新居を眺めた。

 確かにこの新居は来月から通う高校に近い。電車では隣の駅だ。満員電車は嫌なので自転車通学にしようと考えているが、よもや実康が雪乃の通学のために引っ越しを勧めたわけでもあるまい。なにか雪乃には思いもつかないような事情があるのだろう。

(ま、いっか)

 雪乃は立ち上がった。

「お茶いれるね」
「ありがとう」

 綾子がうれしそうに礼を言う。こんな日常の、他愛もないやり取りが雪乃は好きだった。多くは望まない。綾子の体が弱くて、いつまでこの生活が続けられるのかわからない。二人穏やかに暮らせることがなによりありがたいことだった。

 キッチンに向かう雪乃は、ドアフォンが鳴っていることに気がついた。

(誰だろう)

 引っ越してまだ三日だ。そんな雪乃たちを訪ねてくるなど、宅配業者か郵便局か、あるいは。

(もしかして、実康おじさん?)

 インターフォンの通話ボタンを押した。

「はい」
『雪乃ちゃん? 私だよ。入っていいかな』
「実康おじさん! どうぞ!」

 通話ボタンをもう一度押して画面を消すと、雪乃は玄関に急いだ。着いたところで玄関扉が開き、実康が姿を見せた。

「おじさん、いらっしゃい」
「ああ、雪乃ちゃん、こんにちは。引っ越しも落ち着いたかなと思ってね。いろいろ持参したんだ。ほら、貴哉、入って」

 知らない名前が実康の口から出てきて雪乃は首を傾げた。実康が身を引くと、背の高い青年が両手に大きな紙袋を持って玄関に入ってくる。雪乃はその青年の顔を見て驚いた。

(わ、すごいイケメン)

 中学を卒業したばかりの雪乃には貴哉と呼ばれた青年はずいぶん大人っぽく見えた。
 実康と貴哉を中に案内しながら、考える。

(ネクタイはしてないけどスーツ姿だし、実康おじさんとも似ていないし。おじさんの部下とか?)

 実康は部屋の様子を見ながらリビングに向かった。

「いらっしゃい」

 弾んだような綾子の声がして、貴哉を見てから驚いたように右手を口にやった。

「はじめまして」

 貴哉が手提げ袋をテーブルに置き、頭を下げる。礼儀正しくお辞儀をしている様子を見た雪乃は、身を翻してキッチンに向かった。

「あ、雪乃さん、ケーキを買ってきたので」

 貴哉の声が追いかけてきて雪乃は振り返った。近くまで貴哉が歩み寄っていた。

「え? ケーキ?」
「中学を卒業されたというので、そのお祝いに。だから飲み物は紅茶かコーヒーがいいのですけど」
「あ、はい」
「手伝います」
「え、えと、大丈夫です」
「ケーキの主役にお茶の用意をしてもらうのですから、運ぶくらいさせてください」

 真面目な顔をして言われ、雪乃はなにも言い返せなくなった。

「あ、えと、はい。お願いします」

 四人分のカップと紅茶を用意する。綾子はコーヒーを飲まないし、雪乃も苦いコーヒーは得意ではない。そんな二人に合わせているのか、あるいは好きではないのかわからないが、実康もコーヒーを要求することはなかった。だからこの家には、インスタントを含めコーヒーがない。

 ティーポットに茶葉とポットの湯を入れ、カップを温めるために四つのティーカップにも湯を注ぐ。次に皿とフォークを取り出してティーポットと一緒にトレーに載せる。たったこれだけの作業なのにものすごく緊張した。隣に若い男性が立っているからだ。

(クラスメートとか、ぜんぜん緊張しないのに)

 大人の男性だからだろう。しかも顔がよくてかっこいい。手が震えてティーカップを落としてしまいそうだ。

(ヤだ、顔がすごく熱いよ。真っ赤だったらどうしよう。恥ずかしいっ)

 ティーカップの湯を捨ててトレーに置くと、すっと手が伸びてきた。

「あっ」

 思わず声が出て、それから顔を上げる。すぐ上に貴哉の顔があり、目が合った。

「俺が運ぶから。雪乃さんはナイフを持ってきて」
「ナイフ? わかりました」

 イケメンの微笑みに勝てず、雪乃はうなずいた。

 リビングに行くとすでにケーキは箱から出されていた。真っ白なホールケーキの上にはたくさんの種類のフルーツが飾られている。ゼリーが塗られているのでキラキラと光っていておいしそうだ。中央にはチョコレートプレートが載っていて、白い文字で『雪乃ちゃん、中学卒業おめでとう!』と書かれている。

「すごいー!」
「カットは自分でするかい?」

 実康が満面の笑みで尋ねてきた。

「うーん、どうしよう。うまくカットできなかったら悲しいし。お母さん、する?」
「私も得意じゃないわよ」
「貴哉、お前がやれ」
「え、俺? そんな大役はちょっと……」

 誰も切りたがらず、雪乃はみずから切ると宣言し、ナイフを手にした。

 それから四人でケーキを食べながら雪乃の中学卒業と高校進学を祝い、実康と貴哉は帰っていった。

「すっごく楽しかった!」
「よかったわね。やっぱり人数がいると楽しいわね」
「うん! 貴哉さんってめちゃくちゃかっこいいね! イケメンでびっくりしたし、緊張しちゃったよ」
「そうね」

 片づけをしながら興奮気味に話す雪乃に、綾子はいつも通りの穏やかな笑みを向ける。だが、ふいに真顔になった。

「雪乃」
「ん? なに?」
「雪乃は貴哉さんみたいな人がタイプなの?」
「え? やだ、なに言うのよ、急に」
「どうなの?」

 再度問われて雪乃は驚いて言葉を失い、それから照れくささを隠そうとして視線を天井に向けた。少し考えたふうに時間を稼ぐ。

「タイプかどうかはよくわかんないよ。私は優しい人が好きだから。貴哉さん、ちょっと怖い感じもするじゃない?」
「怖い? そう?」
「だって、なんか笑ってても、どこか怒ってるような感じがしてさ」

 雪乃の言葉に綾子は伏し目がちになって、なんだか考え込んだように黙ってしまった。

(実康おじさんが連れてきた人を悪く言ったから怒った?)

 綾子の機嫌を損ねてしまったかもしれないと思うと焦る。雪乃はわざと明るい声を出した。

「でもすっごいイケメンだから、かっこいいな! って思うよ」
「……そう」
「やだ、お母さん、ごめん」
「え? どうして謝るの?」
「だって実康おじさんの部下の人を悪く言ったから怒ったんでしょ?」

 綾子はきょとんとなってから雪乃の顔をじっと見つめてきた。

「部下……」
「うん。スーツ着てたし、貴哉さん、実康おじさんには敬語使ってたから部下でしょ。新人の秘書とかじゃないの?」
「…………」

 綾子はますますじっと見つめてくる。

「違うの?」
「そうね、部下ね。でも新人とか秘書とか、お母さんにはわからないけど」
「うん」

 綾子の表情が緩んだのでほっとする。雪乃は笑って話を続けた。

「けどさ、会社の人をプライベートでつきあわせるってどうなんだろ」
「え?」

「だってさ、実康おじさんの親戚の子が中学を卒業して、それを祝うから同行させて、一緒に祝わせたわけでしょ? 内心では怒ってたんじゃないかな。あ! 怒ってるように見えたんじゃなく、怒ってたのよ。そりゃ怒るわよね。公私混同だから」

「…………」
「なんてところに連れてくるんだって。なら、わかるよね。けど……ねぇ、お母さん」

 綾子は返事をせず、首を傾げた。

「お母さんはこの生活に満足してるの?」
「この生活?」
「私と二人だけの生活。時々実康おじさんが訪ねてきて、少しだけ三人で過ごす生活」

 ほんの数時間だけ家族で過ごす生活――こう聞きたかったが、さすがに言えなかった。
 綾子は少しも迷った様子もなく微笑んでうなずいた。

「ホントに?」
「本当よ。とても幸せよ」
「実康おじさんが訪ねてくるのが時々でも?」
「ええ。おじさんも忙しいから仕方がないのよ。来てくれるだけでありがたいわ」
「そっか」
「雪乃は嫌?」

 尋ね返されるとは思っていなかったので、雪乃は少しだけ焦った。うん、と返事をしそうになって慌てて口を真一文字に切り結ぶ。それから逡巡した。嘘を言うのも嫌だが、綾子を悲しませるのも嫌だ。なんと答えたらいいのだろうと。

「……嫌、じゃないけど、二人だけってのが寂しいかなって思う」

「そっか。でもね、子どもは成長して大人になるでしょ。雪乃ももう来月には高校生じゃない? すぐに大学生になって、成人して、社会人になって、結婚して自分の家庭を持つようになるわ。この生活が嫌だったら、あなたはお母さんとは違う生活を選んで、手に入れたらいいんじゃないかしら」

 それは悲しすぎる。そうなったら綾子は一人ぼっちだ。だが、それはないことを雪乃は知っている。綾子にはもうそんなにたくさんの時間は残されていない。互いに知っている。それなのにあえて今、口にするのだから、綾子が強く望んでいることが雪乃の心に深く突き刺さった。

 不倫などせず、家族の形を成せる愛を得てほしい、と。

「自分の気持ちに素直に突き進むことも大事だし、自分の気持ちを大切して静かに見守ることも大事だし。どんな愛し方が正しいのかなんてわからないけど、雪乃がお母さんの選んだ形が寂しいと思うんだったら、違う形を求めたらいい。人間は学んで生きる生き物だから。幸せは本人が感じることだし、他人にはわからないものよ。幸せそうにしているように見えても、大きな苦しみに苛まれているかもしれないし、その逆もあるわ」

「うん」

 目が合い、綾子は穏やかに微笑んだ。

(お母さんはただじっと静かに待って、実康おじさんに寄り添う道を選んだ。残り少ない時間を、愛した人をそっと支えることにした。これがお母さんの愛の形なんだ)

 それは孤独であり、謗りの道だ。だからこそ強くないと貫けない。自分の命が長くないことをわかっているからこそ、母は強いのだろう。

(私もお母さんみたいに強い心で誰かを愛せるのかな)

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