禁断×契約×偽装×策略
 ガバリと起き上がり、無我夢中で京香の白い体にかぶりついた。
 喘ぐ声も激しく浅見の欲望を煽る。

 頭の中が沸騰したようになって、狂ったように京香を組み伏して何度も何度も欲望をぶつけた。相手への労わりも忘れ、ただただ己の昂りを昇華させるべく、獣のように吼えて女の体を貪った。そして幾度目かの絶頂に達した時、浅見は苦しみから解放されたことを自覚した。全身が急激に楽になり、同時に力が抜けていく。満たされた肉体は弛緩し、ベッドに崩れるように落ちた。

 冷たいシーツが心地いい。
 浅見の意識はそれを最後に途絶え、眠りの底に落ちていった。

 そして――

 目が覚めた浅見の顔から血の気が引いていく。全裸の京佳が隣でメンソールのタバコをふかしていたからだ。

 愕然と京香を見つめる体は恐怖で小さく震えた。

「起きた? 調子はどう?」
「…………」
「素敵だったわよ? とてもワイルドで。壊れるかと思っちゃったわ」
「…………」
「あなた、普段クールなのに、セックスは情熱的なのね。夫には言わないから心配しなくていいわよ。私だって知られたくないもの。でも、時々相手をしてくれたら楽しそうだけど」
「申し訳――」

 京香の指先が浅見の唇をツンと押した。

「二人だけの秘密だからそれ以上言わないように」

 微笑む京香の顔は美しい。とても夫への背徳行為の後とは思えない余裕だ。

 取り返しのつかないことをしてしまった。そう思うばかりで、これからどうしたらいいのかすら頭に浮かぶことはなかった。

 京香はタバコを消すと、立ち上がった。ベッドから下りてまっすぐ立つ全裸の姿は見惚れるほど美しい。浅見が凝視する中で、京香はショーツを拾って穿き、ワンピースを着て、歩いていく。窓際の一人掛けソファの背にかけているガウンを着ると、こちらを向いた。

「この部屋にもシャワールームがあるから使ってちょうだい。私は別のシャワールームを使うから。私に気にせず、いつでも帰ってもらっていいわ。だけど、調査報告書は持って帰ってちょうだい。あなたのために調べたのだからね」

 にっこりと微笑み、京香は部屋から出て行った。

――二人だけの秘密。

(そうかもしれない。それしか、ないのかもしれない)

 とても実康には言えない。彼の妻を寝取ったなど、口が裂けても。
 親友を、大恩ある宇條家を、こんな形で裏切ったなど。

 なぜ――そう思っても、起こしてしまった事実は変わらない。だがやはり、どうして、と思ってしまう。京香はまったく好みのタイプではない。それどころか嫌悪すべき対象だ。美しい姿の下には、人を見下している意思が透けて見えている。優雅な立ち居振る舞いも傲慢さが見え隠れする。それなのに。

 空調が効きすぎて暑くて。そこに八重の浮気の調査報告書を読んでカッとなった。それは確かだ。だが、その後のことはよく覚えていない。全身が燃えるように熱くなり、汗が噴き出して止まらず――いや、血液が下半身に集まっていくのを感じた。

 ただただ苦しくて、込み上げてくる欲望を必死で止めるもかなわず、朦朧となっていた。

(どうすれば――)

 あの時の状況を思い返してみても、現実は変わらない。

 京香に弱みを握られてしまった。もちろん彼女も自らの不貞を進んで実康に話すことはないだろう。だが、男と女の関係では、圧倒的に男のほうが分が悪い。京香が、浅見に押し倒された、と言えば、完全な証拠を出さない限り、誰も浅見を信じてはくれないだろう。浅見は絶望した。

 それから三か月後、京香が妊娠したと知らされた。浅見は心臓が潰れる思いがしたが、京香はなにも言わなかった。実康との仲も良好のようで安堵したのだが。


――一年後。

 浅見は高級ホテルの廊下を歩いていた。封印していた忌々しい記憶が蘇る。およそ一年前も京香に呼び出されてこのホテルの、この廊下を歩いた。そして体調を崩して我を失い、京香を襲うように抱いた。

 何度でも言うし言える。本当に忌々しい記憶だ。

 あれ以来、京香と二人きりになることはなかった。直後は不安も大きかった浅見だが、実康から夫婦仲は問題ないと聞き、また妊娠したとの話や妊娠中の京佳の様子から、浅見は安心しきっていた。それが今になって、あの時の時間、同じ場所に呼び出してくるとは。

 扉をノックし、名を名乗る。すぐに扉が開いた。

「いらっしゃい。待っていたわ。どうぞ」

 中に入ってから立ち止まり、振り返る。そして京香の姿になんだかとてつもなく嫌な予感がした。というのも、あの時とまったく同じ肩ひものワンピースに素足という姿だった。

「どうかして?」
「……いえ」

 短く答え、窓際の椅子に座る。丸テーブルの上にはベビー籠が置いてあり、中に貴哉がいた。ぐっすり眠っていて愛らしい。

「こんな時間に呼び出してごめんなさいね。そのことを謝るわ」

 浅見は内心で舌打ちした。言葉まで一年前と同じではないか。

「貴哉、どう? かわいいでしょ?」
「そうですね。赤ん坊はかわいいです」
「よね。でも、もっと喜んでほしいわ。あなたの子どもなんだから」
「――――」
「信じられないでしょうから、証拠をお見せするわね」

 京香は脇に置いてある茶封筒を浅見に差し出してきた。浅見はその茶封筒をただじっと見つめていた。

「どうなさったの? 見ないの? 私の言葉を疑うにしても、まずは確認しないと。それとも怖い?」

 ひどい言葉に突き動かされる感じで手を伸ばし、それを受け取った。だが、全身からじっとりと汗が湧きだし、手も体も震えてうまく取り出すことができない。

 なんとか中の紙を出した。

「…………」

『貴哉』と表記されているDNAに対し、『実康』と表記されている紙には素人目に見てもパターンが異なっているのがわかる。分析結果欄にも血縁の可能性はほぼゼロとある。対し、『京香』と『亮一』と表記されているそれぞれの用紙には、相関は九十六パーセント以上で、血縁の可能性が極めて高いとあった。

「これを、信じろと?」
「ええ」
「検査対象になにを出したのかは知りませんが、それと本人のものかどうかを証明することはできないでしょう」

「あなたの血液や精液を主人のものとして出した可能性がある、と言いたいのでしょ? それは確かにそうよね。信じないなら仕方がないわ。夫に言うから、もう一回やり直しましょうよ。四人全員で検査会社に訪問して血液を採取すれば正確でしょ。私はこれを信じてほしいために見せたんじゃなく、みなが同意のもとでやり直したいから未然に用意したのよ」

「…………」

 無言で見つめてくる浅見に向け、京香はうれしそうに微笑んだ。

「これを見たら、あなたも主人も検査をしようって気になるでしょうから」
「なにを……」

 京香は浅見の言葉を遮るかのように立ち上がった。浅見の視線が上に向く。露出した背中がやたらといやらしい。

「あなたの恋人、元恋人って言うべきね、元恋人がお金に困っているみたいだったので、そういうのに詳しい知人を紹介したのよ。あの時の写真はその時のものよ。まぁ、大人として礼儀正しく、どこで相談して、どういうふうに解決したのかまでは追及しないけど」

「……金」
「そうよ。お金遣いの荒い家族がいるのは大変よね。そのお金遣いの荒い家族がどういうふうに散在するようになったか、誰にそそのかされたのかまでは、ふふ、これも追及しないでおくわ」

 京香は浅見に背を向けたまま続ける。

「あの報告書を見たら、あなた、きっと感情的になるだろうと思って、特製のミネラルウォーターを用意したわ。それに私、このかっこうでしょ。寒いから空調も強くしていたのよね。スーツのあなたには暑かったでしょ。たくさん飲んでいたから、効いたんじゃないかしら」

「効いた?」

「恋人の浮気に怒り心頭になって頭の線が切れたらいけないと思って、知人に頼んで特製の栄養剤を作ってもらって、たっぷり溶かしておいたの。溜まった鬱憤も一気に解消できてスッキリしたでしょ? だって何度イカされたか覚えてないくらい激しかったもの。あ、栄養剤じゃないわね、強壮剤かしら。なにせ特性だから正確な名称はわからないわ、ごめんなさいね」

「――――」

 京香は身を返し、浅見と向き合うように立って腕を組んだ。顔は相変わらず勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

「確かに激しくて情熱的な夜だったけど、私、疑り深い女なの。だから気持ちよさそうに眠っているあなたから、しっかり精子を頂戴したわ。それを使って体外受精をしたのよ。あ、翌月は生理が来たから、あの夜で妊娠したわけじゃないのよ。それに主人の精子で妊娠したくなかったから、緊急避妊薬を使ったしね。この子は翌月に体外受精をして授かった子だから、間違いなく父親はあなた」

「ど――」
「どうしてこんなことをしたかって? そんなの簡単。当たり前のことだけど、あなたの子どもが欲しかったからよ」
「――――」
「主人ではなく、あなたの子どもが欲しかったのよ。え? あなたのことが好きかって? それはどうかしら。主人よりは好きだけど、愛しているかどうかはわからないわ」

 意味不明なことを言われ、浅見はますます混乱した。

(この女は、なにを言っているんだ)

 ただただ妖しい笑みを浮かべているだけだ。

「法律で私の産んだ子は父親が誰であっても宇條実康の戸籍に入る。貴哉は主人の子として育つのよ。そしていずれ宇條グループの総帥になる。宇條の血なんて一滴も流れていないけどね。つまりは、次世代、宇條グループは佐上家のものになるのよ」

「! それが目的か!」
「そうだとも言えるし、そうでもないとも言えるかしら」
「どういう意味だ!」

「父は私が嫁いで、普通に子どもを産んで、主人が佐上家のために協力してくれたらいいと思っているのだけど、私はそんなのどうでもいいことだわ。どうして父や兄たちがいい思いをするために私が犠牲にならないといけないわけ? 好きでもない男と無理やり結婚させられて子を産んで婚家を手中に収めろだなんて、人権侵害もいいところよ。父の思惑通り素直に実康の子を産むのも嫌だし、好きでもない男の子どもを産むの嫌よ。でも、彼らを困らせるために、まあまあ悪くない男の子どもならいいかしらって。あなたは宇條グループの専属の弁護士だからいろいろ知っているし、実康の親友だから実康への嫌がらせにちょうどいい存在だから選んだの。でも、あなただって得なはずよ? だって実康たちに親を助けてもらって、学校に行かせてもらったって言っても、一生家族全員宇條に頭が上がらないなんてイヤでしょ。息子は次代の宇條グループのトップになるのよ? 公に言えなくても、ざまぁって感じで清々しいんじゃない?」

「黙れ!」
「…………」
「黙れ、そんなこと――許されない。そんな暴挙」
「暴挙? やだ、仰々しい」
「実康を裏切るなんて真似は絶対にしない」
「あら」

 京香はさも可笑しいと言わんばかりにクスクスと笑い、丸テーブルに置かれたベビー籠から眠っている貴哉を抱き上げて椅子に腰を下ろした。

「もう裏切っているじゃないの。この子はあなたの子よ?」
「――――」

「ちょっと外部に聞かれたくない話を私にしてくれたらいいだけよ。世間話としてね。私たちの下剋上はもう始まっているのよ。あなたは息子のために頑張ればいいだけじゃない。親友よりも息子のほうが大事でしょ。だって父親なんだから」

 体が動いたからか、貴哉が目を覚ました。うばうばと喃語を話している。寝起きなのに機嫌がいいようだ。

「かわいいわねぇ。貴哉、ほら、パパよ」

 貴哉の顔が見えやすい位置に向きを変える。浅見を見た貴哉は笑いながら片手を伸ばしてきた。

「パパ、息子のために頑張って働いてちょうだい。とりあえず、宇條家の弱点を教えてもらえたらありがたいわ。ね、貴哉も知りたいわよね?」

 貴哉の無邪気な笑顔と、京香の妖しい笑顔。
 貴哉の愛らしい声と、京香の艶やかな声。
 貴哉のもみじのような小さな手と、京香の赤くネイルされた手。
 そのあまりの対照的な存在が浅見の胸を鋭く貫き、深く落ちてきた。
 浅見はもうなにも考えられなかった。
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