禁断×契約×偽装×策略
「あの、えと」
「そんな皮肉を言う必要ないだろ」

 貴哉が割って入った。みなの視線が貴哉に集まる。空気は相変わらず張り詰めているけれど、京香はニヤリと片側の口角を上げて笑った。

「皮肉って、どういう意味?」
「言葉通りだ。雪乃のことが気に入らないだろうが、だったら無視すればいいんだ」
「なにを言ってるのよ。同じ屋根の下に暮らすのよ? ギクシャクするほうが煩わしいというものだわ。どんな理由があろうと、雪乃さんはお父さんの娘なんだから、家族でしょう?」
「家族だって!?」

 凄む貴哉を止めたのは実康だった。前のめりになる貴哉の肩に手をやり、後ろへ引っ張った。

「父さん」

 貴哉の言葉がズンと雪乃の胸の奥底まで鋭く響いた。

 間違いなく貴哉と実康が親子であること、間違いなく雪乃と貴哉が兄妹であること。その事実が重くのしかかってくる。背筋に悪寒のようなものが走り、胃がギュッと収縮して痛い。

「朝っぱらからケンカはやめなさい」
「だけど」
「穏やかに暮らすことは大事だ。京香が家族だと言ってくれることはありがたい。それでいいじゃないか」
「…………」

 貴哉がグッと奥歯を噛みしめ、顔を顰める。対して京香は、ふふふっ、と笑った。

「昨日も言ったけど、自由に出歩けるのはこの屋敷だけなんでしょ? どうしてそんなに警戒しているのか知らないけど、監禁されているみたいで気の毒だわ。雪乃さん、温室に行けばいいわ。庭師がきちんと管理しているから、いろんな花を見ることができて楽しいわよ」

 しっかりと目を見て言われ、雪乃は自分が返事をしないといけないことを感じた。それに、なによりも、貴哉が言うほど悪い人間には見えないのだが。

「ありがとうございます。食べ終わったらさっそく見に行こうと思います」
「そう。楽しんでね。あ、そうだわ、もし欲しい花などがあったら言ってちょうだい。取り寄せるように伝えるから」
「はい」

 雪乃は笑って返事をしてからカップの紅茶を飲み干した。実康と貴哉はすでにすべて食べ終わっていて、雪乃が飲み終わったタイミングで立ち上がった。

「それでは我々は仕事に行ってくる」
「そう、いってらっしゃい」

 実康と京香がそんな会話を交わしているけれど、京香のほうはまだ食事中だ。実康と貴哉は仕事だからいいだろうが、時間に制限のない雪乃まで離席していいものだろうか。しかしながら、正直言って京香と二人きりになるのは不安である。どうすべきか迷っていると、貴哉が名前を呼んだ。

「なにをしてる。お前も来るんだ」
「え? そうなの?」
「ああ、まだまだ説明しないといけないことがある」
「わかりました。あの、奥様、お食事の途中なのにすみません」
「いいのよ、行ってちょうだい」
「失礼します」

 立ち上がって礼をして、雪乃は慌てて貴哉たちの後を追った。その背に京香の声が追いかけてくる。

「奥様だなんて仰々しいわ。母親なんだから、お母さんでいいのに」

 雪乃は立ち止まって振り返り、会釈をして再び貴哉たちを追いかけた。ダイニングルームを出た瞬間、後方でガシャンという高い音がして、雪乃の体がビクンと跳ねた。それがなにで、どういう状況で鳴ったのかわからない。が、貴哉が雪乃の腕を掴んで引っ張ったので、ダイニングルームを確認することなくその場から立ち去り、雪乃の部屋の前まで戻ってきた。

「温室には行くな。なにがあるかわからないから」
「そうなの? 奥様、あなたが言うような悪い人には見えないけど」
「なにを言ってる? お前を見る目は尋常じゃないだろ」

「でも……警戒しろって言われても、いったいいつまで警戒しないといけないの? 外が危険でここが安全なら、お屋敷の中くらいは自由に動き回っても大丈夫じゃないの? あなたの言葉は矛盾してる。聞けば聞くほど、このお屋敷が一番危険に思えてくる。庭にある温室でさえ危ないなら、部屋から出るなって言ってるようなものでしょ」

「……その通りだ。だけど、今だけだ。もう少し準備が整えば、安全になるから」
「準備?」
「すまない。今はまだ言えないんだ」

 雪乃は激しくかぶりを振った。

「抽象的で、まったくわからない」
「雪乃」
「ごめんなさい。わがままを言うつもりはないの。でも、わけがわからないまま、危険危険って言われるのは、不安ばっかり大きくなって怖いの。だって」
「なに?」

 問われて雪乃はハッと目を瞠った。

「……いいえ、なんでもない」
「なるべく早く、すべてを話せるようにするから、しばらくの間だけ我慢して、部屋から出ないようにしていてほしい。雪乃は俺が守る。絶対に。約束するから」

 貴哉は苦しげに言い、雪乃を抱きしめた。

 兄なのに、抱き締められたらうれしく思ってしまう自分が怖い。恐ろしい背徳行為を不安と寂しさで押し流してしまっている。

 手を離し、すっと離れていく貴哉の体とぬくもりを恋しく思ってしまうのだから、麻痺しているのだ。

「じゃあ、会社に行ってくる」

 そう言いながらも貴哉は動かない。雪乃が部屋に入るのを見届けるのだろう。

「……うん。いってらっしゃい」

 小さく返事をして、雪乃は自分の部屋に入った。

 背後でパタンと扉が閉じる音がする。雪乃は動けず、そのまま立ち尽くしていた。しばらくして、キイと扉が開く音がし、またパタンと閉じる音がした。貴哉が出勤のために出て行ったのだろう。

「…………」

 扉に背を預け、そのままズルズルと崩れるように座り込んだ。

 自分の力ではどうすることもできないところで話がドンドン進んでいっている。想像すらできないのだから、身動きができないし、きっとできないようにしているのだ。そう思うと、本当に貴哉の言っていることが正しいのかどうか、わからなくなる。

 長い間、親切にしてもらってきたが、それすらも実は計画だったのではないか、と疑ってしまうからだ。

――雪乃、お前が好きだ。

 脳裏でこだまする。うれしくてうれしくて、仕方がなかった言葉が急に黒ずんでいくような気がしてくる。

(なにが本当で、なにが偽りなのか、ぜんぜんわからない。貴哉さんの言葉に従っていればいいって、信じていいの?)

 いつまでも座り込んでいても仕方がない。雪乃は立ち上がって机に歩み寄った。ふと、窓の外から声がする。椅子に座るのをやめて窓辺に歩み寄った。そして窓から外を見下ろすと、広い庭でハウスキーパーの若い女が数名洗濯物を干しているのが見える。楽しそうにおしゃべりしている様子が羨ましくて、つい見入ってしまうが、雪乃が見ていることに気づいた彼女たちは、たちまちおしゃべりをやめて洗濯物を干すことに集中し、終わると駆け足でその場から立ち去ってしまった。

 今頃なにを言われているのだろう。

 雇い主の身内が仕事ぶりを監視しているとか、愛人の子が本妻のいる邸宅に乗り込んできたとか、陰口をたたかれているのだろうか。

(そうよね。それしか、ないよ。事実だから)

 実康と貴哉になにか深い事情があるのだと思うのだが、だからといって自分のしていることは厚顔無恥だと言わざるを得ない。たとえいきなり声をかけられて、強引に連れてこられたとしても。

(逃げ出さないのは了承していることと同じ)

 雪乃はそう思って、はあ、と深い吐息をもらした。
 それから数時間、机に向かって本を読んでいた。
 コンコン、と扉をノックする音がして、現実に引き戻される。

「お嬢様、昼食のご用意ができました。ダイニングルームにいらっしゃいますか? それともこちらに運びましょうか?」

 雪乃は慌てて立ち上がり、扉を開けた。そこに立っている女性の名札を確認すると『江口』とあり、例の三人ではなかった。

「えーっと、ダイニングルームに行きます」
「そうですか」

 江口は笑みもなく、いや、むしろ蔑むような冷たいまなざしを向け、さっさと行ってしまった。

「…………」

 ダイニングルームだと入れ代わり立ち代わり人がやってくる。部屋のほうがよかったかなと思うがもう遅い。ダイニングルームに行くと、京香が座っていた。

「いらっしゃい」
「あ、えと、お邪魔します」

 そっと座ると、ふふふ、という京香の笑い声が聞こえた。

「そんなに恐縮しなくていいわよ。まったく貴哉ったら、なにを吹き込んだのかしら?」
「いえ、なにも……」
「そんなことはないでしょう。私が愛人の子を憎んでひどい意地悪をするから気をつけろ、みたいなことじゃないの? いやねぇ、そんなことしないわよ」

 返事のしようがなくて黙り込んでいると、また、ふふふ、という笑い声がした。

「私たち、親の都合で結婚したのよ。今風に言えばお見合い結婚だけど、昔風にいえば政略結婚ね」
「政略結婚?」
「驚くでしょ、こんな時代にって。でも、宇條グループと佐上(さがみ)家のつながりを狙ってセッティングされたものなのよ」

 佐上家、と言われてもピンとこない。だが、宇條グループが血縁によって関係を築きたいというのであれば、相当の家柄なのだと察する。

(なにより、奥様からはなんとも言えない気品を感じるから)

 あとで調べてみようと思いながら、京香の言葉に耳を傾ける。

「佐上家は旧華族の流れをくむ家柄でね。財力的にはたいしたことはないのだけど、そういう歴史があるので多くのツテがあるのよ、政財界に。宇條グループは、まあいわばビジネスで成功を収めた成り上がりだから、佐上家の横のつながりが欲しかったのでしょう」

 旧華族と言われて雪乃は驚きのあまりぽかんと京香の美しい顔を見つめていた。それを察してか、京香がさも可笑しいと言いたげに笑みを深める。

「旧華族なんて聞けば、いったいどんな立派なお家柄なんだと思うだろうけど、実際は普通よ。ビジネスのセンスがなければ、ドンドン貧乏になっていくのだから。でないと、娘を新興企業に嫁がせようだなんて思わないでしょう。小説なんかでよくあるじゃない。貧乏貴族と成り上がりの豪商の身分違いの恋愛小説とか。私たちは恋愛なんてしていないけどね」

 京香はそう言って、ミネラルウォーターの入ったグラスに口をつけた。京香の話が一段落したのとタイミングよく、雪乃の目の前に湯気の立つグラタン皿が置かれた。おそらく、ハウスキーパーが雪乃の食事を運んでくるのを見て、話を切ったのだろう。

「ありがとうございます」

 ハウスキーパーに礼を言って軽く頭を下げ、スプーンですくって口を運ぼうとしたのだが。

「雪乃さんは、好き嫌いはあるのかしら?」

 話しかけられて、雪乃は下げていた顔を上げて京香を見、持っていたスプーンをグラタン皿に置いた。

「好き嫌いはありません」
「あらそうなの。いいことね」

 雪乃は愛想の笑みを向け、顔を少し落として手を動かそうとした。

「ところで」

 京香の言葉に反応し、動かしかけた手をまた止める。京香に視線を向けると、にっこりと微笑んでいた。

「雪乃さんには恋人はいないのかしら」
「恋人?」

 問われて背中がヒヤリとする。貴哉とのことは絶対に知られてはいけないと思い、心臓が激しく打った。

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