※エリート上司が溺愛する〈架空の〉妻は私です。

「私なら平気ですよ?ちょっと周りがうるさいぐらいで、専務からもお咎めなしだとお墨付きを貰いました。噂だってそのうちおさまりますって……」
「そういう問題じゃないんです」

 では、何が問題だというのだろう。
 何を言っても取り合ってもらえず悔しさのあまりぎゅうっと拳を握りしめる。

「私は静流さんが出ていくなんて嫌です……」

 二人で紅茶を飲むちょっとした時間とか、たわいもない話で笑い合う時間が好きだった。
 疲れた日に食べる宅配ピザの美味しさとか、鏡の磨き方にこだわりがあったりとか。
 少しずつ二人で積み重ねてきた日々がすべて終わる。
 紗良にとっては大事な思い出でも静流にとっては大したことではないのかと思うと悲しくなってくる。

「それでも……出て行かないといけないんです」
「どうしてですか!?」

 静流を責めたくないのに、つい責め立てるような口調になってしまう。

「私のせいで誰かが傷ついていくのが耐えられないんです!!もう二度とあんな想いはしたくない……」

 なおも食らいついていく紗良に静流は声を荒げた。苦しそうに表情を歪め消え入りそうな声で訴えるその様子にこちらまで胸が傷んだ。

「静流さん、詮索しないとお約束しましたがやっぱり話してもらえませんか?元の職場で何があったのか……」

 もう二度とあんな想いはしたくないと悲痛な叫びを上げる静流が一体何に苦しめられているのか。
 その原因がかつての職場にあることは紗良にも何となく分かっていた。
 静流の表情を曇らせている得体の知れない何かに、この生活を壊されてたまるかと半ば意地になっていた。
 静流はしばし視線を彷徨わせたが、大きく息を吐き出した。理由を聞かないと紗良は納得しないと諦めたのかもしれない。

「わかりました。お話しします。貴女には聞く権利がある」
 
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