隣の家の渡邊君はイケメン俳優やってます。

一月三日 (ⅰ)

 朝だ!起きよ!いい天気!!

 無理矢理自分に言ってベッドから出た。とはいえ今日の私は違うわ。約束があるからね。
 朝ご飯をさっと食べてお隣に向かう。今日の約束場所は渡邊さんち。相手は育子さんと子ども達。育子さんが自宅でやってる習字教室の、年始めの書初め会のお手伝いをするのだ。

 渡邊家の家の横に増設されている平屋の教室に入ると、すでに育子さんが準備していた。

「おはようございます」
「おはよう。お休みなのにありがとうね、よろしくね」

 書初め会のお手伝いは毎年恒例だ。いつものようにフロアモップを持ってきて掃除を始める。小学生の頃は私もこの教室で習っていた。全く向いてなくて中学入学のタイミングで辞めたのだが、字は今でも下手なままで、さっさと辞めてしまった事が大人の今になって少々悔やまれる。

「母さん、紙ここに置くよ。あ、咲歩ちゃん、おはよ」

 董也が母屋に通じる戸から現れて、華やかな笑顔を私に向けた。
 朝っぱらから爽やかで疲れるわーと、心中で思ったりなど。

「あ、なんか言いたそう」
「おはようございますって言いたいだけです」
「おはようございます」
「おはようございます」

 二人でお辞儀し合う。我ながら何してるんだか。

「あ、董也、外に筆箱洗い用のバケツだしてね」

 という育子さんの指示に董也が、はい、と、外に出る。教室にしている離れは母屋とは別に入口があり、その入口のすぐ脇の通路の所に屋根付きの手洗い場が設けてあった。そこで筆を洗ったり、手を洗ったりするようになっていた。

 私も董也を手伝いながら話しかけた。

「もう帰るのかと思ってた。手伝っていくの?」
「帰るのは明日。早く戻っても仕方ないし。家のほうが美味しいもの食べられるし」
「それはそうだけど。たださ、昨日、仕事してたから」
「台本読みはどこでもできるもん」

 とか言う。わざわざ私の家に来たよね昨日、という突っ込みをする前に董也が続けた。

「それに今日、夕方から高校の同窓会だし」
「え、そうなの?」
「うん、高三の時の」

 そうなんだ。私と董也は同じ高校だったけど、三年間同じクラスになった事はなかった。

「出るんだ?」
「うん、久しぶりだし」
「へえ」

 ちょっと意外。はっきり言って董也は高校時代は影が薄かったというか、友人もいたんだかって感じだったから。

「なんとなくね。こんな機会もうないかもしれないし」

 私の心の声が聞こえたわけでもないだろうけど、彼は付け足した。

「……楽しみだね」
「そうだね。あ、で、その前に時間もあるし神社行こうと思うんだけど、咲歩ちゃんも一緒に……」
「行かないよ。午後から買い出しするし」

 えーという董也の不満を打ち消すように、大きな甲高い声と笑い声がいくつもした。

「おめでとうございまーす」

 小学生の女の子達が三人、まとまって楽しそうにやってくる。

「おめでとうございます。今年もよろしくね。寒いねー」
「平気だよー」
「咲歩ちゃん、お手伝い?」

 女の子が口々に賑やかに聞いてくる。

「そうだよ」
「あ、やばい。えーこの人見た事あるー」

 一人が立っていた董也を見て言った。

「おはよ。元気だなあ」

 董也が気押され気味だ。

「あ、あれだよ。ほら、先生の子ども俳優さんだって言ってたじゃん。テレビで見た事あるー!」
「えー!かっこいい!サインお願いしちゃおうか」
「いいから、あなた達早く教室入って準備しなさい」

 入口でわちゃわちゃしてる彼女達に言うと、はーいと素直に中に入った。

「元気だね」
「うん。テンション高いよ」
「昔は咲歩ちゃんもあんなんだった気もするな」
「いらない事を思い出さない」

 董也が何か言おうとして、また別の声が被った。今度は少し低めの、でも、もっと大声。

「さほー、はよー、たりー」

 そう言ってやってきたのは大柄な少年で、細身の少年が一緒にやって来た。

「あけましておめでとう。ちゃんと来たじゃん」
「来るよ。母ちゃん煩いもん」
「さほちゃん、おめでとうございます」

 細身の男の子がにこっとしながら挨拶する。

「おめでとう。書初め終わったらお汁粉あるからね」

 やったーと大柄な子の方が喜ぶ。そして、細身の子が董也に軽く会釈し、もう一人は睨みつけるように見ながら教室に入って行った。

「生意気だなー」

 董也は苦笑すると、中を手伝うね、と部屋に戻って行く。その後に続こうとすると、背後から鈴のような小さな声がした。

「咲歩ちゃん、おはようございます」

 私は振り返る。女の子が立っていた。小学三年生の子。でもたぶん平均より小さい子だ。ツインテールの髪を毛糸でできた花のついたゴムで結んでいるのが可愛らしかった。

「あけましておめでとう。寒いね。頑張って来たね」
「うん、あ、おめでとうだった」

 小さい声で言い直す彼女に、私ももう一度、おめでとうと返す。

「中に入って書く場所作ろう。カバン可愛いね」

 彼女はピンク色の柄の入っている新しい習字カバンを持っていた。

「うん、あのね、サンタさんにもらったの」

 とても嬉しそうにカバンを抱えながら言う。

「よかったね」

 私も笑顔を分けてもらう。

 二人で中に入ると、先に来た子達がすでにお手本広げて書き始めていた。

「ミノル、真面目に書きなさい」
「真面目にやってるしー」

 大柄なミノルが育子さんに怒られて言い訳しながらも小さくなっている。
 横から中腰で覗き込むと途中で失敗して集中がきれたのか、最後の方に向かうにつれて字は崩壊しており、ついでに名前を書く所に猫の絵が筆で書かれていた。

「お、猫うまいじゃん」

 私が声をかけるとニヤッと笑いかけてくる。

「ミノルのうちの猫はトラじゃなくてミケじゃないか」

 隣に座っていた細身の少年が言ってくる。 

「いいんだよ、なんでも」

 怒ったように言い返すミノルに私は言った。

「猫はうまいけどここは字を書くとこだからね。次の子達来ちゃうから頑張ってさっさと書く」

 書初めはいつもの半紙より場所を取るため時間をずらして子供達が来るようになっている。それでもいっぱいだ。学校で出された宿題を教室でやってしまいたい親子が多いのだ。

 ミノルが不貞腐れた顔で次の紙を用意し出した頃には、先に来た女の子達は書き終えて育子さんに選んでもらっていた。いつもの事でもキャアキャアと楽しそうだ。

「だいたいさ、こんなんなんの役に立つんだよ」

 ミノルが言う。

「役に立つよ」

 私が言うとギロッと大きな目を向けた。

「じゃあ、さほが書けよ」
「なんでよ、君の宿題じゃない」
「誰が書いてもわかんねえよ」
「わかるに決まってるでしょ。それに私、あんたより下手だよ」

 そう言うとミノルはマジか、とケラケラ笑って急に元気になって書き出した。全く、小学生男子ってのは……。
 それでもなんでも集中してちゃんと書けばミノルの字は自由に伸び伸びしていて、お世辞ではなく私よりいい字を書くんだよね。そういう子供の姿を見ているのは楽しいなあっていつも思う。

 そんなこんなしているうちに次の子達も少しづつ来て、賑やかになっていく。と、急にわっとした甲高い声で溢れた。

「えー、董也くん師範持ってるんだ、え、書いて書いて」
「いや、その、持ってるだけだし」
「いいじゃんいいじゃん、大人も宿題やろうよ」

 小学生女子、圧強いぜ。
 もちろん董也は固辞していたが、育子さんが横から口を出した。

「そうね、あんたもたまには書いてみなさいよ」
「母さん!?」
「こんな機会ないと書かないでしょう、さ」

 と言って自分の先生用の場所を空けた。董也は嫌そうだ。御愁傷様。

 結局、書いちゃった方が早いと判断したのか董也が書き出した。ミノル達も書き終わって覗きにいく。私は片付けをしながら視線だけ送っていると、あっという間に彼は書き上げた。小学生向けの楷書のお手本をそのまま書いただけだったとはいえ、早い。
 それを女子が手に持って掲げているのが見えた。……基本をおさえた優しげで整った、でも縮こまっていない字。ああ、董也の字だなあ。それにこれだけサッとかける所を見ると今でも書いているのかもしれない。

 周りの小学生の賛辞の中で彼は困った顔をしていた。と、おいちゃん……董也の父親が母家の続きの戸から顔を出した。

「お汁粉あったまったぞ。終わった子はおいで」

 わーいと声に被さって育子さんの「片付け終わった子からよ」の声がした。ミノルが慌てて戻ってくる。董也は母親と二、三言葉を交わして家の中へ入っていった。お汁粉配り手伝うのだろう。
 私はやってくる子達に場所を作りながら、やっぱり、習字続けとけば良かったかな、と、ちょっと思ったりしていた。




「咲歩ちゃん、手伝うよ」

 昼近くになり子ども達もほとんど書き終わった頃、外の手洗い場で雑巾を洗っていると後ろから声をかけられた。

「大丈夫、だいたい終わったし」

 私は隣に立った董也に視線を向けた。

「でも、水冷たいし、手、荒れちゃうよ、代わって」

 イヤ、むしろ貴方の方が手荒れしたらまずいのではないかな、と言う前に董也が割り込んでバケツやら洗い出す。
 その横をミノルを始めとした男子が固まって帰って行く。

「じゃなー」
「さよなら」
「気をつけて帰りなよー」
「はーい」

 一通り挨拶を交わしながら後ろ姿を見送っていると董也が笑顔で言った。

「咲歩ちゃん、いつも人気だね」
「ええ、そう? どっちかっていうとからかわれてない? いいけどさ」
「それも込みで。好かれてるなって」

 それは褒められているのかな?

「それにしてもミノルは今頃帰るって何してたんだか」
「中で食べながらずっと友達とゲームしてたよ。早く帰ると怒られるだけだからって」

 思わず笑ってしまう。家族仲が悪いわけではないだろうが、まあ、そんなんだよね、きっと。

「ちなみに、僕とやって勝ったけど」
「え? どっちが?」
「僕」
「何、大人げない事してんの」
「ゲームでは手を抜かない主義なの」

 やっぱり大人げないじゃない。だいたい董也はこんな爽やか系で売ってるくせに昔からゲームやり込んでて、結構強いはず。

 そう思ったのが顔に出たのか、董也は悪戯っぽく笑った。

「だって、生意気だったんだもん」

 ……あのねえ。まあ、相手が悪かったな、ミノル。とはいえ帰る時、楽しそうにしてたから嫌じゃなかったんだろうな、とは思う。

「そういえば、書初め書かされてたよね、上手くてびっくりした」

 私は洗った物を片付けながら話を続けた。

「ああ、こっちがびっくりしたよ。いきなりなんだもん、母さんもさあ」
「まだ書いてるの?」
「たまーにね」
「凄いな」

 ただでさえ忙しいだろうに。苦手な私からみると凄いと思う。

「出来てた事が出来なくなるの嫌じゃない? それにいつ役に立つかわからないし、さ」

 高校時代までの董也はこんなに勤勉だったろうか? 案外と思い出せない。そして大学一年の終わり以降の事は……わからない。

 私は何となく彼の整った横顔に視線が止まる。そもそも、私の記憶にある一番彼らしいイメージはこんなんじゃない。もっと弱々しくて無口であんまり笑わなくて目なんて髪で隠れて見えなくて、そんでずっと……。

「咲歩ちゃん?」

 ……そう、この声で私を呼んでいた。優しい、でも音のはっきりした声。変わらない。

 名前を呼ばれて何でもないよと口にしようとした時、近くで男の怒った声がした。それに続いて子どもの声。私と董也は目を合わせると声のした道路側に出た。
 すると、家から数メートル行った先に、一人の男と、ついさっき挨拶して帰って行った男の子たちが、道路の真ん中で立っていた。

 男は子供たちに絡んでいて、子供たちは身を引きながら困ってオドオドしている。

「どうしたの?」

 私と董也が割り込むと一人の子が言った。

「えっと、あの、ミノルが……」
「あんた、親か? こいつがぶつかってきたんだよ。最近のガキは謝ることも知らねえ」

 親のわけないだろう、いくつだと思ってんだよ、と思いながらミノルを見ると彼は言った。

「そっちからぶつかってきたんじゃねえか。それに、謝ったぞ」

 きっとそうだと思う、そう思うのが正しいかはわからないけど。分かるのは、僅かに酒の匂いもさせているこの中年の痩せぎすの男が、まともに話し合える相手じゃないということだ。

「ああ、すみません、お兄さん、悪かったね、怪我とか無い?」

 隣で董也がニコニコしながらおっさんに話しかけた。ミノルが勢いこんで口出ししようとするのを、私は慌てて止めるとそっと距離をとらせて小さな声で子供たちに伝えた。

「ここはいいからもう皆んな帰りな」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫。皆んなで帰るんだよ? 一人になっちゃう子いない?」

 それぞれに、うん、いないよ、と頷く。

「だけど、さあ、あいつ……」

 ミノルが口を挟んだ。視線の先に男二人がいる。彼の不満げな口調の、あいつ、がどっちを指しているのかはわからないが、とにかく家へ帰るように言うと、ミノルも友人達に「行くよ」と引っ張られるように帰っていく。

 その後ろ姿を見送って、二人の男の様子を伺うと、まだ董也が機嫌をとっているところだったが、だいぶ中年男の気も鎮まったのか落ち着いていた。董也は変わらずニコニコしながら絡まれている。

「あんた、いい男だな。女にモテるだろう」
「いや、そんなことないよ?」
「どっかで会ったことあるか?」
「どうだろう、ないんじゃないかな」

 早く行けや、おっちゃん、と私は内心毒づきながら遠巻きに見ていると、男は奇妙な親しさというか馴れ馴れしさで董也の肩に手を置いた。
 げ。気持ち悪い。
 思わず顔をしかめた私と対照的に董也は表情を変えない。男は董也に顔を寄せるようにしてボソボソ何か言ってる。董也は困ったような顔をして、でもまだ笑っていた。
 ……大丈夫かな。高校生の頃の彼の、知らない人に近寄られるだけで嫌そうにして距離をあけていた事が思い出される。

 やがてどう話が落ち着いたのかしれないけど、男はニヤニヤしながら離れて歩き去っていこうとした。そして道の途中に立っていた私に視線を向ける。目がどんよりと曇っていてそのくせ口元だけニヤけていて、どう取り繕っても好感が持てない。

「お姉ちゃんが兄さんの女か?親って者も大変だな」

 だから違うって。言ってることめちゃくちゃだな。よく董也、我慢して相手したよ。

「よく見りゃ姉ちゃんも美人だな」

 そりゃどうも、と心の中で苦々しく思いつつ表面上はあやふやな笑みを浮かべる。ああ、嫌。

「いいねえ、美男美女」

 その言葉とともに手が伸びてきた。


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