隣の家の渡邊君はイケメン俳優やってます。

一月三日夜 董也(ⅰ)

 さて、どうするかな。

 一月三日、いや、もう四日になるところだった。今年は暖かい正月だったがそれでもこの時間は当然寒く、両手をコートのポケットに突っ込んだまま、董也は自分の実家と隣の家を息を白く吐き出しながらしばし眺めていた。

 彼女の言う正しい僕はどちらでしょう?

 一軒は真っ暗で隣は灯がついていた。真っ暗なほうが自分の家で、灯りは咲歩の家だ。
 考えた末、いや、正解には考えたフリを自分に与えた後、董也は隣の呼び鈴を鳴らした。
 しばらく待っても応答はない。再び鳴らす。灯が消える。やばっと思って董也は電話をかけた。

「咲歩ちゃん? 僕だけど。開けてくれると嬉しいんだけど」

 返事はないまま電話は切れ、代わりに足音の後、玄関のドアが開いた。チェーンはかかったままだ。

「……あんた、何考えてるの?」

 グレーのスウェット姿の咲歩が低い怒った声でドアの隙間から言ってくる。

「ごめんね、あのね、同窓会だったんだ」
「……言ってたね」
「二次会まで付き合ったらこんな時間になっちゃって」
「そう、よかったわね、楽しくて。で?」
「で、帰ったら家の電気消えてて。母さんたち寝ちゃってると思うんだよね」
「もう日付け変わるしね。で?」

 今の、で?って凄い力入ってたな、と董也は思った。

「でね、咲歩ちゃんとこは灯がついてて起きてそうだったし」
「……お喋りがしたいなら充分したわ。おやすみ」

 ドアが閉まる前に董也は言う。

「家の鍵、持って出るの忘れたんだ」

 目の前でドアが閉まる。董也はそのまま待つ。不安はない。だって、咲歩ちゃんだよ?
 一分と待つ事なく再びドアが開いた。チェーンはかかっていない。

「……次はないと思いなさいよ」
「うん、ありがとう」

 董也は言って中に入る。緩む口元を隠すために下を向きながら。



「ごめんね、怒ってるよね」
「……今日は育子さん疲れてるだろうし、外寒いし、あんた馬鹿だし」

 言いながら咲歩はリビングのエアコンをつける。

「うん、ごめんよ」
「とにかく、私は寝る。死ぬほど眠い」

 そう言って碌に目も合わせないまま咲歩は部屋を出て行った。
 流石に甘えすぎたかな、と思いつつコートを脱いで悴んだ手をエアコンの吹き出し口にかざす。思ったより寒い。今晩は氷点下何度くらいになっているんだろう。
 と、咲歩が再び部屋に入ってきた。手には毛布やら何やら持って。

「これ、毛布。とりあえず二枚持ってきた。エアコンはつけっぱなしでいいから」
「ありがとう」
「あと、バスタオルとジャージ」
「え?」
「寒いしお風呂入るでしょ?今入れたから。あ、ちゃんとお湯落としとくのよ」
「え……いいの?」

 董也は受け取りながら聞く。

「そもそもこんな時間に来るのが良くない。でも風邪ひいたら寝覚めが悪いでしょ」

 咲歩は怒った声で言う。董也は戸惑いながら紺色のジャージを掲げた。

「あ、それ父親の。それくらいしかないから小さいだろうけど我慢して」
「……わかった。ありがとう」
「おやすみっ」

 不機嫌そうなまま咲歩が出ていくと董也はソファに座り込んだ。そして、笑いが溢れるのを我慢した。

 相変わらず人がいい。大丈夫か心配になる。まあ、誰でもって訳じゃないだろうけど。……このジャージ、おじさんのか。一瞬、元彼のかと思った。さすがにないよな。ないけど……そいつ、ここに来た事あったのかな……。

 イラっとした思いを打ち消すように風呂が入ったと電子音が伝える。董也は息を一つ吐くと立ち上がった。
 


「相変わらず寒いな、この家」

 董也は独り言を言うとソファの上で毛布に包まった。風呂上がりの体が急速に冷えていくのを感じる。

「咲歩ちゃん()古いからなあ」

 咲歩の一家が引っ越してきたのは自分の家より後だったが、もともとあった中古の家をリフォームかけて入居したはずで、そのせいもあるのか自分の家より寒い気がする。
 董也はソファに寝転がって照明がついたままの天井を見上げる。物音はしない。外もまだ正月のせいもあってか車の音もせず、聞こえてくる音はエアコンが動いている音ぐらいだった。しばらくそのまま天井を見上げていたが、やがて起き上がると部屋のエアコンと天井灯を消した。

 そのまま毛布を持って二階へ上がる。勝手知ったる他人の家、迷うことなく目当ての部屋のドアをそっと音もなく開けて中に入った。中は常夜灯の灯がぼんやりと部屋をオレンジ色に染めている。その壁際にあるベットには一人分の上布団が盛り上がり、そこから寝息が静かに聞こえた。

 董也はその横にそっと立つとベットを見下ろす。咲歩が眠っている。

「……馬鹿なのは咲歩ちゃんだよ」

 そっと言ったその声に彼女が起きる気配はなかった。咲歩は顔半分まで上布団に隠して壁を向いて真ん中より外側で横向きに寝ていた。その上に自分の影を落としながら董也はしばし見ていた。
 それからベットの壁際に、持ってきた毛布をひくと細心の注意を払って咲歩越しにその中に潜り混んだ。

「あったかい……」

 思わず呟いてしまう。顔の位置を咲歩と合わせる。流石に起きるかな、と言い訳を考えていたが、咲歩は穏やかな寝息をたてたまま起きない。どうしたんだろう?眠剤でも飲んでいるのだろうか。起きないならそれはそれで都合が良いけど。

「普段から眠れなくなっているんだったら嫌だな……」

 元気な咲歩でいて欲しいと思う。それが勝手な願望であることはわかっている。咲歩ちゃんはちゃんと傷つく人だ。おまけに、そうとは気付かせない人だ。それがいいかどうかは別にして、そんな所も好きだった。

 幼稚園の年中の時に咲歩が隣に引っ越して来てから、考えてみれば長い付き合いだ。いつもひっついていた訳ではない。陰キャだった僕と比べて彼女は友達もいたし。それでもずっと仲は良かった。

 咲歩の事を想うとき、いつも頭に浮かぶ場面がある。

 あれは確か高校二年だったと思う。夕方、学校からの帰り道、いつもの細い橋の上を通りかかると咲歩ちゃんが真ん中あたりで立っていた。普段から人がそんなに通る道じゃないから当然彼女一人。川下側にある大きな通りにかかる橋の上ではテールランプが並んで光っていた。その下の川面は炎のように赤く、見上げた空は赤と宇宙の色が混ざっている。咲歩ちゃん自身も赤く染まりながら無感情な顔でぼうっと立っていた。

「……咲歩ちゃん?」

 声をかけるとこっちを見ていつもの顔になって僕の名を呼んで……その頃はまだ二人きりの時は、とあ、って呼んでて……笑った。

「すごい夕日だね」
「そうだね。綺麗だよね」

 そう屈託なさげに話す彼女がその頃、友人関係で悩んでるのを僕は知っていた。相談されたことはないけれど。
 咲歩ちゃんは友達が多かったし好かれていたけれど、一方で嫌う人は嫌っていた。彼女は正しい女の子で、でもそれを押しつけるような人でもなかったけれども、でも一部の人にとってはイヤなタイプの人だったと思う。……その気持ちも僕はわかった。

「なんだか話すの久しぶりだね。元気?」
「元気だよ。とあは?」

 まあまあ、と適当に返事する僕によかった、と彼女は笑顔で言う。どこか寂しそうな影が見えたのは夕日のせいだったろうか。
 それからしばらくその場で川を見ながら話したと思う。何を話したか覚えてないし、全然たわいもない話だったと思うけれど、多分咲歩ちゃんには気分転換になったんだろう。話している内に声が明るくなっていった覚えがある。

 で、帰ろうか、となって僕を見た時の咲歩の、その時の姿が脳裏に焼き付いている。
 夕日に照らされていた彼女は微笑んでいて、瞳が強くて綺麗で、長い黒髪が風に揺れていて、僕は何故だかドラクロワの自由の女神を思い出していた。
 なんでだかわからない。似てる所なんてないのに。夕方の強い風に流れる髪が、たなびく旗を連想でもさせたのだろうか。
 脳内で起こった事への理屈はわからないが、とにかく、咲歩ちゃんはその時から僕の女神になったんだと思う。今、思い返すと。

 そして確かに言えるのは、あの時、僕は分かりやすく恋に落ちたんだ。ずっと好きだったし、特別だったよ? でも、あの時、次元が変わったんだよ。僕の周りでしていた音が、止んだ気がしたんだ。

 咲歩がゴソゴソと動いた。董也は起こしたかと思ってじっとする。と、咲歩は目を開けないまま丸まって上布団に顔を突っ込む形でまた穏やかな寝息をたて始めた。

 董也は思わず声にしないまま笑みが出る。そっと指の裏で半分でた咲歩の額に触れる。冷たい外気に当たっていたせいか思ったよりひんやりとしていた。
 変わってないよな、と董也は思った。

 こんな感じで丸まって寝るの幼稚園のお昼寝の時から同じだ。あの頃の僕は泣き虫の人見知りだったから、いつも咲歩ちゃんの後ろにひっついていた。……あの頃、「咲歩ちゃん、大きくなったらケッコンしよ」って言ったら、にっこりして「うん!」って言ってくれたのにな。ちぇっ。

 それから高二の二月に告白して付き合うようになった。この時には幼稚園児の気軽さは当然なくて、ものすごくドキドキした。それでなくても高校時代の僕は酷くて、前髪伸ばして顔の半分は見えなかったし、無口で誰に対してもほとんど自分から話すこともなく、陰気で影が薄かった。わざとそうしていた。とにかく人と関わり合うのが嫌で、学校には行っていたが精神的には引きこもりに近いものがあった。
 そんな僕が、なんていうの? 音楽祭実行委員とかを率先してやっちゃうタイプの女の子に告る気持ちを想像してくれ。断られたら学校辞めようと思っていたからね。でも、反面、そんな僕だから勝機はあるとは思っていた。咲歩ちゃんはそういった人間を、それもよく知っている僕を、切り捨てられないって知っていたから。

 それから大学一年の秋にフラれるまでずっと仲良かったし、ずっと一緒にいるつもりだった。

 董也は自分の顔を咲歩に近づける。薄暗い夜の部屋の中、ぼんやりとした視界の代わりにその人のもつ暖かさがはっきり伝わってくる。彼女は石鹸の香りがした。

 ……ああ、キスしたいなあ。でも目を覚ますよなあ。キスだけじゃなくてもっとしたいなあ。でもそんな事したら怒らせるだけじゃ済まないしな、あーあ。……よく僕みたいな人間を側に置いとくよな、この人。人を信じちゃうと警戒心が無くなるの、なんとかすればいいのに。だからヘタな男に捕まって不倫もどきみたいな目にあうんだよ。もっとも不倫だなんて思わないし、そうだとしてもそれ自体はどうでもいいけど。
 ……そんなヤツに泣かされる事ないのに。男はいい気分だったろうな、わかるよ、咲歩ちゃんを欲しがる気持ちは、ね。……泣いてる咲歩を抱くのは最高だったろうさ、馬鹿野郎。

 …………。ダメだな。思考がヤバくなってる。自制心が自分の長所だろ? これ以上だとやらかすな。止マレ、もう寝よ。

 あのね、大好きだよ。



 
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