隣の家の渡邊君はイケメン俳優やってます。

一月三日夜 董也(ⅱ)

       ◇ ◇ ◇

「え、あ、え? 何て言ったの?」

 董也は聞き返した。紅葉した公園の木々が風に揺れ、足元の乾燥した落ち葉はかさかさと音を立てていた。

「だから、別れようって」
「え? ……何で? 急に? 僕、何かした? 最近、会えなかったから? でも、この前、来てくれてたよね、何かあった?」

 所属していた大学の演劇集団の舞台で、初めてちゃんとした役が思わぬ経緯でやってきて、その稽古と後片付けでしばらく会えてなかった。

(でも連絡はしてたし、本番も見に来てくれて、良かったよって一言メッセージくれたのに。一言だけだったけど、凄く嬉しかったのに)

「……最近じゃなくて、ずっと思ってたから」

(嘘だ。そんな素振り感じなかった。それとも振られる時ってそんなもんなの? え? ……分からない、どういう事?)

「咲歩ちゃん、待って、意味わからない。僕はそんな……」
「ごめんなさい。もう、決めちゃったの。ごめん」

 そう言って咲歩は頭を下げた。董也は怒りと悲しみと困惑で混乱した。でも、その後も何日かかけてやりとりした結果、どうにもならない事だけがわかった。


       ◇ ◇ ◇

 
 咲歩が見に来てくれた舞台は、役者として一番最初の大事な芝居になった。元々演劇を成り行きで始めて、裏方なら面白そうと思って参加していたのに、リーダーの先輩の思いつきで、急に役者をやる羽目になった。シリアスな脚本の中で主役の考えを変える重要な役だった。

 三日しかない舞台で、咲歩が見に来たのは確かバイトか何かの関係で、最終日だった。
 初めは来てくれたと思って、恥ずかしさもあってヘンにテンション上がってやりにくかった。彼女は最前列から三列目くらい、やや右寄り、舞台上からも見える場所にいた。黒くて長い髪を垂らし黒い服を着ていて、暗い芝居小屋に紛れ込むようにそっと座っていた。

 狭い小屋、黒い壁、スポットライトにきらめく埃、熱、汗の匂い、パイプ椅子、咲歩。

 やがておかしな感覚になった。今までになく役に入れ込んで、まるでソイツ自身になったようだった。僕がセリフを言っているのではなく、ソイツが喋っている。でも頭の片隅が酷く冴えていて、自分の動きが外から見るようによくわかっていた。それに、人の感情が見える気がした。舞台上から客席から、見えないものが流れてくる。

 終演後の挨拶で大きな拍手をもらった。満場の拍手ってこういうものかと思った。客席も明るくしての再挨拶で、狭い小屋の中で涙を流して手を叩いてくれている沢山の人を見た。

 思ったんだ。この拍手は僕のものじゃない。この物語が見てくれた人の心を動かしたからだ。見てくれた人がこの物語を受け止めてくれたからだ。そして何より、今、見てくれた人の心の中にあった物語が、新たな物語を受け止めて涙を流させたのだ。

 物語が、受け止められて完結する瞬間に、受け止めた人の中で新しい物語として始まる瞬間に、僕はいた。

 僕は自然と客席に向かって拍手をした。そうしたらもっと大きな拍手が返ってきた。それを受けて丁寧に長いお辞儀をした。そして顔を上げた時にこわごわと咲歩ちゃんを見た。彼女も手を叩いてくれていた。大きな瞳からは涙が溢れていて、その涙を拭おうともせずに咲歩は僕を真っ直ぐに見ていた。

 その時、不意に涙が溢れた。一緒に舞台上にいた仲間が肩をたたいてくれた。でも違うんだ。泣いたのは舞台が成功したからじゃない。
 彼女が綺麗だったから。涙が美しかったから。そこにあったあらゆる祝祭と喜びと切なさが全て咲歩の形をとっていて、その瞳が僕だけを見ていたから。女神のように。だから。

 僕には咲歩ちゃんが必要だ。
 そして、僕は彼女を失った。


       ◇ ◇ ◇


「眠れない」

 董也は寝返りをしたくなった。でも狭すぎて打てない。このベッドから、この部屋から出て、ソファに行けばもう少し寝やすいとは思うが、それはそれで……。

「寒いしなあ」

 なにより薄暗い視界の目の前の彼女から離れ難くてできない。

 起きたら怒るよなあ、今度こそ嫌われるかな? ……多分、大丈夫だ。結局のところ嫌われたことは多分ないのだ。最近はもうほとんど弟かなんかみたいに思われている気がするし。それはそれで困るんだけどさ、居心地は悪くない。

 なんで自分が振られたのか、別れることになったのか、正直今でもよくわからない。当時はわからないだけでなく大混乱したし、もの凄く悲しくて辛かった。いきなり夜中に叫んだりしたよね。むしろ、それでよく僕は咲歩ちゃんのことを嫌いにならなかったよ。
 不思議に嫌いになったり恨んだりはしなかった。でも、辛さはやがて怒りに変わった。彼女に対する怒りというより、あらゆる事に対する怒りだ。人生であんなに怒っていたことはない。

 僕は怒りを抱えたまま芝居にのめり込んでいった。家から出て大学近くのアパートで一人暮らしも始めた。そのうち他の劇団の芝居に出るようになったりした。知り合いも増えて、彼女もできて、そして別れてまたできてを繰り返し、事務所のオーデションを受ける話も出て、#側__はた__#から見るとトントン拍子で順調に見えただろう。

 その間、怒り続けていた。ずっと何年も呼吸が浅い気がした。食欲はなくてそのくせ暴飲暴食した。大学出た頃には眠れなくなってきていた。それでも頂けていた仕事に没頭して、仕事の量も幅も増えていった。どんどん時間がなくなった。その時付き合っていた彼女とは別れた。必要性のない人間と付き合っている暇はなかった。新しいことが次々とやってきて、乗り越えないといけなかった。失敗したら次はないと思った。楽しかった。芝居しているとき、現場にいるときは少なくとも。どんなに胃が痛かろうが頭が割れるような痛みがあろうが、セリフを言っている時は気にならなかった。でも、わかってた。何かが足りない。

 ある冬の日、起きられなくなった。急に体の中で燃えてた怒りが、消えた。そしたら体が冷え切って、動けなくなった。運の良いことに、僕は本当に運の良い人間なんだけど、たまたま数日仕事がなくて、しばらくじっとしていた。そしたら、温かいものが欲しくなった。だから部屋から出て実家に向かった。温かいものと思った時に実家のご飯が浮かんだから、深く考えることなく自動的に動いていた。あの時の僕は息をしていたのかな?と思う。息をして胸が動くのが苦しかったんだよ。

 実家に着いたのは夕飯が終わるくらいの時間だったと思う。出迎えてくれた母は僕を見て目を丸くした。そりゃそうだよね、それでなくとも滅多に連絡一つよこさない息子がいきなり帰ってきたら。

「ご飯ある?」

 なんの前置きもなく言った僕に母さんは、

「残り物で良ければあるわよ、手を洗ってきなさい」

 っていつも言ってた言葉をくれた。そんな優しさに、でもあの時の僕は何も心を動かす事なく、無表情のまま台所に向かった。

 そしたらさ、いたわけだよ。咲歩ちゃん、#貴女__あなた__#が。

 食卓に座って、箸とお茶碗持って、あ、董也、おかえりって。ご飯お邪魔してますって。朝出てって今帰った人に言うみたいにさ。

 台所は窓が結露するくらいあったかいし、何か美味しそうな匂いしてるし、椅子に座るとあっという間に味噌汁や白米やらお浸しやら納豆やら出てくるし。気づくと咲歩ちゃんと向かいあって、母さんがさっと作ってくれた卵焼きを一緒に食べながら、「やっぱり卵焼きの甘いのいいよねえ」なんて言う咲歩ちゃんの言葉に「そうだね」とか言ってた。

 卵焼きは分量を間違えたのかというくらい甘くて、体に沁みるように美味しかった。久々に食べた物を美味しいと思った。何年かぶりに会った咲歩ちゃんは、まるで何もなかったみたいに、昨日会ったみたいに笑顔で、僕もつられて口角が上がった。必要ないのに笑ったのは久しぶりだった。その夜は実家の自分のベッドで眠った。泥のように。久しぶりに。

 本当に僕は運のいい人間だ。

 そして次の日の昼過ぎに起き出さないままベッドの中で、ぼんやり思い出していた。僕だけを見ていたあの日の客席の君の瞳を。僕が失ったものを。僕に足りなかったものを。

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