いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
ほれ薬と媚薬と大嵐

1




「今日はありがとう」

北の塔の前でヴァラはヒューにお礼を言った。

「森の魔女のところに行くときには、必ずお供するよ」

「この次はふわふわ雪も連れて行くわ。あなたとあの子がいれば、武装した人が来ても魔術を使う人間が来ても平気だから」

「平気かどうかは絶対的な保証はできないけれど……ふわふわ雪って、ああ見えて強いとか?」

あぁ、とヴァラは笑った。

そして左手の指をパチンと鳴らすと、彼女のコタルディの長い裾の後ろから、いつもの小さな毛玉のような子犬がぷりぷりとしっぽを振りながら現れた。

「身代わりのお留守番、ご苦労様。ふわ雪、元の姿(・・・)になってヒューに見せてごらん?」

ヴァラがそういった途端、ヒューはあっと驚愕の声を上げた。


今目の前にいた手のひらサイズの毛玉のような子犬は、ひと瞬きのうちに子牛ほどの大きさの巨大な白いオオカミに姿を変えた。

小さな毛玉の時はまん丸い三つの黒い点に見えた目と鼻は、切れ長の黄金色の炯眼と長いマズルの先の三角の黒い鼻に変わっている。口は大きく裂け、大きな牙と長い舌がのぞいている。

「……?」

固まるヒューにオオカミの喉元を撫でながらヴァラは苦笑する。

「これがこの子の本来の姿なの。普段は魔力の消費を最小限に抑えるためとかさばらないために、あの小さな子犬の姿をしているけれどね。この子は警戒心が強くて、小さな姿は慣れている人にしか見せないの。初対面の人や親しくない人にはずっとこのオオカミの姿に見えるし、この子が嫌っている人や私に悪意のある人には、もっと獰猛で凶悪なケモノにしか見えないのよ」

「驚いた……」

ヒューはそっと巨大なオオカミの鼻先に手のひらを差し伸べる。するとオオカミは甘えたように目を細めてくうんと喉を鳴らした。どうやら見かけはともかく、中身はちび犬と変わらないらしい。


ヒューは手を伸ばし、オオカミのふわふわ雪の頬と喉元をわしゃわしゃと掻いてやった。

そして、今朝クラム侯がぼやいていた内容を思い出す。「まったく、あのような恐ろしいけだもの(・・・・・・・・・・・・・)をそばに置く王女を……」とか、言っていたっけ。
 
つまり、クラム侯にはふわふわ雪が巨大で獰猛なオオカミに見えているということか。

そして少しさかのぼれば、帰国の挨拶に王太子の居住宮を訪れた時のイギーとの会話も思い出される。

庭園でヴァラを見かけたきっかけは、ふわふわ雪がヒューを導いたからだった。何か連れていなかったかと訊かれ、手のひらに乗るくらいの真っ白い子犬だと答えた時の、バルとイギーの驚いた表情。

彼らはヒューにふわふわ雪がどう見えたのかを確かめたかったのだろう。


「私には、初対面から子犬の姿だったからてっきり普通に子犬だと……」

「私もそれを聞いて驚いたの。でももしかすると、あなたは私の祖父のエドセリクの守護の呪に守られているから、この子にしてみれば親しみを感じたのかもね」

「なるほど」

これはこれでかわいい、と巨大な白いオオカミの喉元を両腕で撫でながらヒューは微笑む。


「それにしてもさっき、森の中では……なかなか興味深い戦法だったよね」

ヴァラがくすっと思い出し笑いをした。

「相手を油断させるのも作戦のうちだよ。確実に勝率を上げるためには、私は幸いにも騎士ではないので利用できるものは何でも利用するんだ」

「うん、効率的でいいと思うわ」

「バルが言っていた剣術大会、あれでも実証済みだよ。準決勝ではクマ殺しのグラディエーターに力技で吹き飛ばされて負けたけれど」

「いやだ、ケガはした?」

「幸いにも軽い打撲ですんだよ。この剣の守護のおかげかな」


ヒューは腰に下げた剣の柄頭(ポメル)についた人差し指の先ほどの、紫がかった深い赤い石(ガーネット)に指先で触れた。

あたりはすっかり薄闇になっているのに、なぜか二人はだらだらと話し続けている。なんだかか去りがたい、とお互いに何となく思っている。

それでもきりがないからと、ヒューは思い直して切り出す。

「では、バルに今日一日の報告を上げて帰るとするよ。また明日」

 はっと深い青の瞳を一瞬大きく見開いたヴァラは薄く微笑んで頷いた。

「はい、ではまた明日に」

ヴァラは塔の入り口の扉を開けてふわふわ雪とともに入り、鍵を閉めた。それを確認したヒューは塔を離れ王太子の居住宮へ向かった。



石のらせん階段をゆっくりと上がっていたヴァラは、自然と口元をほころばせていた。

なんだろう、もう少し一緒にいたかった。なぜだろう? 

兄たちや、ハイデとイェルといても楽しいけれど、そのどちらとも何かが違う。

ヒューといると楽しくて、瞬く間に時が過ぎる。ふわふわしてドキドキして、足元がおぼつかないところを歩いているようなのだけれど、それが楽しくて仕方がない感じ。

一緒にいる時間がずっと続けばいいのに。すごく離れ難い。きれいな顔立ちをしているのに、ヒューは気取ったところがない。知識をひけらかすわけではなく、嫌味なく知的で穏やかで落ち着いている。


兄のバルも落ち着いているほうだけれど、普通の彼らの年頃の男の子たちは、何かしら他人より抜きん出て優位に立とうと虚勢を張ったりするだろうに、そんな要素はかけらも見せずに泰然としている。

幼いころから兄たちとよく遊んでいたというが、ヴァラの誕生日の夜まで、一度も会ったことがなかったなんて。


くすっと笑い、ヴァラは手の甲を唇に当てる。

森で男たちに襲われそうになった時の彼の戦術には驚かされた。彼はわざと弱く見えるように剣など握ったこともないような姿勢を取っていたけれど、後ろから見ていたヴァラにはそれが演技であることに気が付いていた。

攻撃範囲に相手が近づいて自分に有利になるまで待ち、長い剣の軌道を計算しているように見えた。素人相手に構えるまでもないとヒューを馬鹿にしていた男たちは、まんまと彼の策略にはまった。

彼らが攻撃可能な範囲に入った途端、迅速に正確に彼らの剣を弾き飛ばして攻撃できないような太刀傷を負わせた。


男たちは騎士には見えなかったが、兵士か軍人かあるいは傭兵か、なんらかの剣を使うものたちだと見て取れた。それなのにヒューはいとも簡単に彼らから剣を奪ってしまったのだった。


ヒューが一緒にいてくれて、本当に良かった。

あの男たち……

ヴァラは一転、石段を上る自分の足元に視線を落として考える。


嫌な視線は少し前から感じていた。

しかし、襲われたのは今日が初めてだった。人嫌いで貴族たちを避けてめったに人前には表れない彼女が感じる、悪意に満ちた視線。それが誰のものなのか、うすうすは気づいていた。

バルも同じ人物を思い浮かべていたに違いない。しかし、何の確信も証拠もなかったし、見られていただけでは何も責めることはできない。それでも今日やっと、確信が持てた。

いよいよ、城内にいても危険はあるかもしれない。


こうなることを予測したバルは、だからこそヒューをヴァラに着けたのだろう。

「お前だけでも、十分だと思ったけれどね。そうとも言えなくなってきたわ」

塔のらせん階段を上り下りするにはオオカミの姿では狭すぎるため、ふわふわ雪は小さな毛玉の子犬の姿で、懸命に石段を飛ぶように上り続けている。ヴァラに話しかけられて立ち止まり、彼女を仰ぎ見て首を傾げた。



< 11 / 30 >

この作品をシェア

pagetop