いねむり姫 ~魔女姫と呪われた若君~
紅い芥子の野原にて

1




嵐の後の朝の清廉な空気の中、瑞々しい緑の木々の間で小鳥たちのさえずりが聞こえる。


ほとんど一睡もできなかったヒューは、自分に絡みついて安心して寝息を立てている華奢な体をそっと引きはがして、音をたてないように慎重に立ち上がった。

彼が動いたことで、二人が寄りかかっていたふわふわ雪が頭をもたげてヒューを見たが、彼は人差し指を唇の前でそっと立てて見せた。三角の耳の付け根をくしゃくしゃと軽く撫でてやると、巨大な白いオオカミは気持ちよさげに目を細めた。

彼は椅子の背からシャツと上着を取ると乾いたことを確認して首を通した。できるだけ音を立てないように扉を開けると、外にすべり出てそっと閉めた。



やっと、深く大きなため息をつく。

外の井戸で頭に水をかぶる。犬のようにぶるぶると頭を振り、水滴を周りに飛び散らせる。

ふと何かの気配に気づいて顔を上げると、井戸のふちに昨日の黒猫が座っていた。

驚きで息をのむヒューの頭の中に、声ではない言葉が流れ込んでくる。

「馬たちは庵の裏の納屋の中にいるぞ」


ヒューは目の前の黒猫を見つめる。そうだ。この猫は普通の猫じゃなかった。この庵の主である老魔女の使い魔だ。しゃべらずとも言葉を伝えてきたとしても何ら不思議はない。

ヒューは黒猫に微笑む。

「ありがとう、真夜中月。馬たちにまで気が回らなかったから、助かったよ」

黒猫はこくりと頷いて身を翻すとどこかへ消えてしまった。



黒猫の言葉通り、納屋の戸を開けると二頭の馬たちはおいしそうに飼い葉おけから干し草を食べていた。

ヒューを見ると二頭とも嬉しそうに小さく鼻を鳴らした。ヒューは順番に彼らの鼻面をやさしく撫でてねぎらい、再び庵へ戻った。

入口の扉を開けるとふわりと首に巻き付いてくる頼りなげな重みをとっさに受け止めた。

「ヒュー! 先に帰ったかと思った!」

乾いたコタルディを着たヴァラの背をやさしく撫で、ヒューは苦笑する。

「そんなことをしたらバルにどんな目にあわされるか、恐ろしすぎる。きみを置いて行くわけないよ。馬たちの様子を見てきたんだ」

「そう……」

ヴァラは安堵のため息を漏らす。


昨日、怒ったハイデが置いて行ってしまったバスケットのパンやリンゴを朝食として分けて食べる。四人分の軽食が入っていたので、昨夜少し食べた残りでもなんとか空腹は満たされた。

「恥ずかしながら、私の作った混合液は失敗だったみたい。熱っぽくなっただけね。ハイデに偉そうに言ってしまったけど……」

ナイフで半分に切ったリンゴを差し出すと、ヴァラは一口かじって悔し気に呟いた。

恥ずかしいのはそのことなのか? とヒューは内心苦笑する。やはり、そういうところは普通の姫君とは違い、魔女独特の感覚なのかもしれない。

「なにせ……」

ヴァラはヒューをまっすぐに見つめる。


濃い青の美しい瞳からは感情が読めない。

ヒューはその妖艶な青の瞳に心臓を射抜かれたかと思った。そしてそのあと、彼女の可憐な唇から発せられた言葉に驚いてしまう。

「一、二滴が目の中に入ってしまっただけとはいえ、あなたを誘惑することができなかったのですものね」

紅茶が変なところに流れ込み、涙をにじませてごほごほとせき込むヒューを前に、ヴァラは「ちょっと残念」と肩をすくめる。


冗談はやめてほしい、と呼吸を整えながらヒューは心の中でヴァラを非難する。

ひとめぼれした相手にしどけなくしなだれかかられて、妖艶に魅惑的に誘惑されていたのに必死で耐えていたのだ。

高熱で震えるやわらかで滑らかな素肌を腕に抱いて、歴代国王の名前や周辺国の国名を暗唱して気をそらしながら彼は死ぬ気で一晩中、己と闘っていたのだ。

彼女はヒューのつらさをなにも理解していなかった。

やはり、相手にも盛らないとダメみたいね、あるいはなにか材料が足りなかった? 呪文を間違えたかしら? などと、独り言を呟きながらのんびり考察している。

彼女の誘惑が失敗に終わったのは、ひとえに自分の理性のおかげだとヒューは思う。



朝食を終え、納屋から馬たちを引いてくる。薄い栗毛色のおとなしい馬の背にのせてやると、ヴァラはヒューにお願いする。

「ねぇ、少しだけ寄り道をさせて。取って帰りたい薬草があるの」

濃い栗毛の馬にまたがったヒューは苦笑する。

「今更だけれど。昨日からバルが心配しているんじゃないかな」

「今更だから、ちょっとぐらい大丈夫よ。昨日のうちに戻らなければ嵐で足止めされたんだってイェルとハイデは思うだろうし、イェルがバルにそう報告してくれているわ。ふわふわ雪もあなたも一緒だから、そんなに心配してないと思う」



嵐は、森を丸洗いしたかのようだ。新鮮で清廉な空気を吸い込むと、体の中まで浄化されるようだ。朝露なのか雨のしずくなのか、草の露が朝日を含んであちこちでキラキラと輝いている。

半馬身ほど前を行くヴァラの後姿を見て、ヒューはひそかに感嘆する。

本当に美しいな。魔女というよりは、森の精霊のようだ。馬上ですっと伸びた薄い背筋、折れそうに細い腕や腰や肩。

ぼんやりと見惚れていると、小さな美しいかんばせが振り返り、魅力的な微笑を浮かべてヒューを見る。

「ここよ」


木々に取り囲まれるようにぽっかりと空いた野原のあちこちには赤いたおやかな芥子(けし)の花々が咲いている。

向かって右手には、鏡のように穏やかでつややかに空を映した、小さな美しい湖が横たわっている。

ヒューは息をのみその景色に見とれた。

「美しいね……」

「そうでしょう? 私は薬草を積むから、ヒューはそうね、あの木の下あたりで休んでいて」

ヴァラの指さすほうには、まだ十数年の樹齢の若いブナの木が一本だけ立っている。直射日光をよけるには十分そうな木陰だ。


ぱちん。


何かの呪文を小さく唱えたヴァラが指を鳴らすと、さらりと空気が弧を描いて野原の朝露を浮かせて湖の水面に吹き飛ばした。


「ヒュー、休む前にちょっと手伝って」

馬から降りようとするヴァラの言葉に気づき、美しいしずくが飛び散る様子に見とれていたヒューは、はっと我に返る。そして馬の背からひらりと飛び降りてヴァラに手を差し伸べた。

馬の背から体を傾けたヴァラは、ふうわりとヒューの腕の中に落ちる。

差し出した自分の手を取るのだろうと思っていたヒューは、不意打ちにうわっと小さく叫び、ヴァラを落とさないように慎重に抱きとめた。



ヒューの首にしがみつきながら、その焦った様子にヴァラは小さな少女のように楽しそうにくすくすと笑った。
   
ヒューはヴァラを受け止めたものの、バランスを崩して地面にしりもちをつた。

最悪だ、濡れる! と思ったが、湿った嫌な感覚はなく、ヒューのお尻は濡れることはなかった。

「この野原の朝露は、すべて飛ばしてしまったから……座っても濡れないわ」

ヴァラが内緒話でもするかのように、ヒューの耳元でささやいた。彼女の唇が彼の外耳をかすめる。ヒューは心臓が止まるほどびっくりする。

くすっと笑い、ヴァラは立ち上がってヒューに手を差し伸べる。


いたずらっ子のような好奇心に満ちた青い瞳。彼女は両手でヒューの両手をつかみ、か細い力で全力で彼を引っ張った。

「馬は放しておいても大丈夫。呼べば戻ってくる、賢い子たちだから。あなたはあの木陰。ハイデのバスケットにブランケットがかかっているでしょう? あれを敷いて」

「いや、手伝うよ、薬草摘み」

「んー、ちょっと毒草と区別がつきづらいものだから、私だけで十分よ。昨夜、私のせいでほとんど眠れなかったでしょう? だから休んでいて」

頭一つ半くらい高いヒューを見上げ、ヴァラは穏やかな笑みを浮かべた。


さっきまでは誘惑しているような蠱惑的な態度を取ったかと思えば、無邪気な優しさも見せる。

ヒューがしばしぼんやりと見惚(みと)れている間に、ヴァラは薬草摘みに離れていった。

はっと我に返ったヒューは、言われた通りおとなしくバスケットからブランケットを取り、若いブナの木の木陰に広げてその上に寝転がった。

ブランケットを広げるとふわふわ雪が飛んできて、毛玉の子犬の姿で端っこで丸くなって眠り始めた。

うららかな日差しに誘われて、ヒューもいつの間にかすとんと眠りに落ちた。



どれくらい眠ったのか。

瞼の裏が赤く透けて、ヒューはうっすらと目を覚ました。そしてすぐ、自分にくっついている別の体温に気づいて驚く。
 
目の前にはアッシュブラウンの髪が見える。そして彼の肩のくぼみには、規則正しい寝息が聞こえる。

ヴァラの白い小さな顔。長いまつ毛が見える。彼女はどうやらいつもの眠りの真っただ中らしい。ヴァラの背後には、巨大なオオカミ姿に変わったふわふわ雪が寝そべり、二人を守るかのように周囲を警戒していた。

なんだか幸せな気分になり、ヒューは口元をほころばせた。

そしてそのまま再び瞼を閉じた。ヴァラの呼吸にヒューの呼吸が重なる。彼はすぐにまた、眠りのふちにすとんと落ちた。



夢の中でヴァラは誰のものとも知れない声を聴いた。



『グライフに守られし三つの紅玉にかけられた呪いを解けば、すべてはまもなくつつがなく終わるであろう』



ヴァラはゆっくりと覚醒する。


そしてそっと上半身を起こすと、首に下げた小さな手帳に、今夢の中で耳にしたことを書き留める。手帳を置き、傍らに目を落とす。


唇を少し開けて熟睡するヒューがいる。端麗な寝顔やダークブロンドの髪には木漏れ日が注がれている。

ヴァラは口元をほころばせるとヒューのダークブロンドの髪に細い指を梳かせた。

ほんの数日前、ヴァラの誕生日から彼女の毎日の中に現れたヒューは、まるで昔からずっと知っているみたいな感じがする。

まだまだお互いに知らないことは多いし、癖や性格だって理解しあっているわけではない。


それでも自然体でいられることが心地よく感じる。



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