期末テストで一番になれなかったら死ぬ
第四章 強い人を選びなさい
 九月最初の土曜日には、雨が降った。

 小降りの雨は、辺りを涼しくするどころか、却ってその湿気で不快感を増幅させた。

 病院へと向かう、通い慣れた道中。外からは雨が、内では汗が私を濡らした。

 三鷹市のくじら山病院は、駅から離れた場所にある。吉祥寺駅からバスで行くのが最も楽だ。

 最寄りのバス停から歩く時間なんて高が知れているが、それでも私は湿気から逃げ切ることはできなかった。

 この夏は、雨の記憶が薄かった。もちろん一日も降らなかったわけではない。鹿島くんと出かけた日には、激しい夕立もあった。だけど、ぱらつくでもなくざあざあ降るでもなく、じどじと陰鬱な雨が数日にわたって振り続けたという記憶はない。

 かつて、こんな雨に降られたことがある。

 あれは一年前。梅雨の日。

 その日も私は病院に行った。

 一年生の一学期。中間テストの最終日。最後の時間。教科は世界史だった。

 廊下の向こうからパタパタとサンダルで走る音が聞こえ、その足音が私の教室の前で止まる。ドアが開く。息を切らした青木先生が私の名を呼ぶ。もうその時点で私は事態を察していた。廊下に出る。病院に急げと指示を受ける。頷く。その数日前から容態は悪化していた。先生はタクシーを呼んだという。待っていられない。学校を飛び出し、病院へと向かう。走ると傘が邪魔。畳む。雨を感じる。息が荒い。走ったのは多分二十分くらい。時間の記憶が薄い。くじら山病院に着く。受付で名前を告げる。病室ではなく、手術室に向かえと言われる。案内される。廊下に季帆さんがいる。季帆さんは、駆け寄って私を抱きしめた。首筋に温かいもの。初めて感じる季帆さんの体温。涙の温かさ。

 首を大きく振る。

 纏わりつく湿気と、嫌らしい想像を振り払うために。



 一年ぶりの病院は、以前と同じ顔で私を出迎えた。何もかもがあの頃のまま。でもきっと、患者だけはあの頃とは違っている。

 受付のお姉さんは私のことを覚えていてくれたようで、
「久しぶり」
 と声をかけてくれた。

 お姉さんは少し苦笑いを浮かべていた。それはまあ、困るだろう。まさか『また会えてよかった』なんて言うわけにもいかないし。

 大変な仕事だな、と頭が下がる思いがした。

 教えられていた病室の番号は、お父さんが入っていた部屋の番号とは一つ違いのものだった。それなら案内がなくても分かる。何度も通った道のりだ。迷うことなくその病室に辿り着く。

 横開きのドア。木製の把手。触れては離し、また触れる。

 と、部屋の中から声が聞こえた。鹿島くんのこえだ。朗らかな笑い声。

 その声に促されるように、ドアを引き開ける。

「ん、君か」

 鹿島くんは「よう」と笑みを浮かべながら手を挙げた。その元気な声音に、思わずへたり込みそうになる。よかった、元気そうで……。

「鶴ちゃん、来たんだね。なーんだ」

 安曇の冷めた声が耳に届く。安曇は、ベッド横の椅子に座っていた。鹿島くんのすぐ脇、手の届く距離。何かあればすぐ手を差し伸べられる家族の距離。安曇はそこにいた。

「何だはないだろ。せっかく来てくれたんだから」
 と、鹿島くんが安曇を叱る。

「思ってたよりフツーの人間なんだね。そういうの、要らないんだけどなー」

 安曇は私だけを見て言った。鹿島くんが「ひまり!」と呼んでも、振り向きもしなかった。

「……鹿島くん、これタオルなんだけど、よかったら使って」

 私は私で、安曇を無視することにした。何で安曇が突っかかってくるのか理解できないけれど、別に理解できなくたっていい。私は安曇を理解したくてここに来たわけじゃない。

「ありがとう。助かるよ」

 鹿島くんは笑顔でお見舞いの品を受け取ってくれた。

 入院しているとき、どれだけあっても困らないのがフェイス・タオルだ。洗顔に入浴に手洗いにと使う場面は多いし、かといって小まめに洗濯ができる状況でもない。タオルは数を揃えるのが大事だし、できれば使い心地にもこだわりたい。ずっと同じ格好、同じ体勢で過ごす入院生活では、パジャマやスリッポン、下着にタオルと身体に触れるものにこだわらないと、細かなストレスを貯めていくことになってしまう。

 なので今回は、特に触り心地がよいものを買ってきた。かつてお父さんが入院中に愛用していたものだ。

「急に学校に行かなくなって申し訳なかった。夏の間はずっと調子が良かったんだがな。今も、入院とはいってもそんなに悪くはないんだ。本当は始業式だって出られたんだがな」

「出なくていーよ、そんなの」

 吐き捨てるように言う安曇。鹿島くんは口では何も言わず、ただそっと安曇の腕に手を置いて嗜めた。

「夏休みは顔を出せなくて悪かった。追追試は受かってたんだろ?」

「……うん。ばっちり」

「当然だ」と、鹿島くんは満足げに頷いた。

「で、一学期までの復習はやってるか? 赤点回避した教科もやっておけと言ったよな」

「やってる。結構進んできたよ」

「そうか。二学期は授業もしっかり聞いて、こまめに復習しろよ。中間テストでどれだけできるか見物だな」 

「うん。赤点は取らないようにする」

「それじゃ全然足りない!」

 と大きな声を出したのは、鹿島くんではなく安曇だった。私も驚いたが、鹿島くんも目を丸くした。

 鹿島くんはすぐ我に返り、

「ひまり、君が怒ることでは、」

 と宥めようとしたが、安曇は言葉の途中で立ち上がった。

「こっち」

 そして私の腕を掴んでドアへと歩きだした。

「ひまり!」

「怜央、ちょっとだけ待っててね」

 安曇はそう応え、病室のドアを閉めた。



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