期末テストで一番になれなかったら死ぬ
「どこ行くの?」

「言い争いができる所」

 そう言って、安曇は私を休憩室に連れて行った。

 休憩室は、確かに言い合いのできる場所だった。

 お見舞いの来訪者や、変化のない病室に疲れた患者の語らいや食事の音、テレビからはワイドショーの声。病棟の静けさを保つため、あらゆる雑音をそっと閉じ込めたような空間だった。

 紙パックの自動販売機はあったけれど、安曇は飲み物を買おうとはしなかったし、私もそんな気にはなれなかった。喫茶しながらの談笑なんて要らない。

 私たちは無言のまま手ぶらで円卓に着いた。

「……怜央ね」

 切り出したのは安曇だった。足を組み、私から目を逸らしたまま、安曇は言葉を紡いだ。

「もうすぐ死ぬ」

 分かっていた。そんな気はしていた。

 鹿島くんのことしゃない。自分のことだ。

 自分がそれを聞いたら動揺するということを、私は知っていた。

「死なないって言ったじゃん!」

 こんなふうに子供じみた八つ当たりをする程までとは、流石に思わなかったけれど。

「言ったけどさ」

 安曇は冷笑を浮かべ、鼻で笑った。

 確かに一学期に安曇は言った。鹿島くんは死なないと。でもそれは『期末テストで一番になれなかったら死ぬ』という鹿島くんの言葉の否定だったから、今の話と文脈は違っている。

 頭では分かっていても、感情の制御が利かない。それは、記憶にある限り初めての経験だった。

「しょーがないよ。人間、いつかは死んじゃうんだから」

「そんな言い方!」

 遠くから咳払いが聞こえた。見れば、遠くの席でおじさんがこちらを睨んでいる。

 知るか黙れ。

 流石にそう口に出さないだけの分別は残っていた。

 そして、安曇を詰る言葉をこれ以上投げつけない程度の理性も、まだ私にはあった。

 安曇にとって鹿島くんがどれだけ大事な存在なのか、私は知らないけれど想像はできた。誰よりも近くにいる人。当たり前のようにそこにいる人。その人を失おうとしている安曇は、今ここに至るまでにどれだけ苦しみ悩んだだろう。その結果の諦念。投げやりになるのは、これ以上の希望を抱かないようするため。期待しなければ裏切られない。安曇は、そうして必死に心を守っている。

 賢いな、安曇は。お父さんを安心させようなんて頑張った私は、結局このざまだもの。

「……ごめん。言い過ぎた」

 私が下げた頭に、安曇の舌打ちが降り掛かった。

「え、終わり? もう何もないの?」

 安曇が煽る。

「鶴ちゃん、本当に察し良すぎなんだよ。いつもそう。一人で納得してる」

 顔を上げる。安曇の顔はしわくちゃだった。

「結局さ、怖いんでしょ? 本音とか本気見せるのが怖いんだよ」

 なるほど。そう口走りそうになった。

 教科書に載っていた『山月記』。ガリ勉エリートの李徴を、私は鹿島くんみたいだと思った。でも違った。『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』。虎になった李徴は、私の方だった。

「鶴ちゃんさ、怜央のこと好きでしょ」

 半分以上泣き顔の安曇が、当たり前のように言った。

 これが普段なら、私は強く否定しただろう。真偽はともかく、簡単に認められる話じゃない。

 でも今の私は、思考が冷たく冴えわたり、安曇の決めつけを素直に是認できた。

「うん」

「鶴ちゃん、一応頑張ったけど、もう遅かったね」

「……もう遅いの?」

 安曇は歯を食いしばり、それから表情を緩め嫌な笑顔を浮かべた。

「二年前にね、言われたの。余命二年だって。□※○・▲―って知ってる? 知らないよね」

 その名前を、私は知っている。

 私からお父さんを奪った病。その名の響きは忘れない。忘れられない。

「怜央ね、ずっと鶴ちゃんのこと気にしてたんだよ」

「私を?」

「あの子、元々勉強はできたけど、余命を告げられてからは更に頑張るようになったのね。中学のときなんかずっと一位だった。でも高校入試では一番になれなかった」

 安曇が顎で私を指す。

 新入生代表は私だった。入学式で壇上に登り、挨拶を務めあげたとき、背中には無数の視線を感じた。教職員、保護者、そして他の一年生。その中に鹿島くんもいた。当たり前のことだけど、今更それを意識した。

「中間テストでも怜央は二位で、そのときが初めてだった」

「……何が?」

「怜央が言いだしたの。『期末テストで一番になれなかったら死ぬ』って」

 ああ。鹿島くんにそう言わせたのは、私だったのか。

「じゃあ、あのときの期末で一番だったのは鹿島くん?」

「当たり前じゃん。だから怜央は今も生きてるんだよ」

 安曇は鼻で笑い、それから立ち上がった。

 休憩室を出ていく安曇についていく。

「……高校で一番になれなかったときね、最初は私、心配したんだ。怜央が落ち込んだりしないかって」

 背中越しに、独り言のように呟く安曇。

「そしたら怜央、落ち込むどころか張り切りだしたの。負けてられないって」

 廊下を進み、病室が近づいてくる。

「でもその後鶴ちゃんが駄目になっちゃって、今年に入ってからは少し気が抜けてる感じだった。だから、鶴ちゃんがもう一度怜央に刺激をくれないかなって、そう期待したんだけど……もう遅かったね」

 病室のドアに手をかけた安曇が振り向く。

「一位どころか追追試受かったくらいじゃね」

「……安曇は、どうしたいの?」

「どうしたい? 何もしないよ。できない。ただ側にいるだけ」

 安曇がドアを開く。

「鶴ちゃんは彼氏つくったりしないんだよね」

 病室に一歩入ったところで、安曇は立ち止まった。

 ベッドの上で、鹿島くんが怪訝そうな顔をしている。

「男の方が寿命短いもんね」

 私の目の前で、ドアは静かに閉ざされた。



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