キスマーク
キスマーク
 「カフェ カモミール」に下宿を始めて早1年が経とうとしていた。ひょんなことをきっかけにこちらで下宿を始めたものだが、まさか店主の真崎さんとお付き合いをすることになろうとは思ってもいなかった。黒髪オールバックで口髭と顎髭のサングラス姿に、最初はヤクザな男だと思って警戒したものだが、中身はただのぶっきらぼうな心優しいおじさんだった。

付き合い始めてからも生活は変わらず、1カ月3万の下宿代は払い続けているし、朝食も夕食もカフェで彼が作ったものをいただいているし、時々彼の晩酌のお供もしている。

 ひとつ、大きく変わったことがあった。彼が私の前ではサングラスを掛けなくなったのだ。交通事故で左目を怪我して以来、瞼には傷が残り、左目は光を失っている。普段はそれをサングラスで隠していたのだ。左目だけでなく、その事故で一人娘の咲笑花ちゃんと死別、そして奥さんとの別離という辛い過去さえも…。サングラスを外してくれたことは、私に心を許してくれた証なのだと思っている。

「どうした。ボーっとして」

 彼は今夜も、相変わらず肌着にステテコ姿でタバコと焼酎をのんでいる。そんな色気のない格好なのに、襟元からのぞく胸毛がセクシーだと見る度に思ってしまう。

「いや、ここに住み始めてもう1年が経つんだなあと思って」

 今夜のようにしとしとと雨降る夜は、彼と出会ったあの日のことを思い出すのだ。

「そうか。もうそんなになるのかぁ…」

 彼は宙を見ながら感慨深げにタバコを一息吸った。

「私、あのとき真崎さんが作ってくれたナポリタンの味が忘れられないんですよねぇ」

「ふーん。俺は美晴が俺の胸でわんわん泣いてたことが忘れられねえな」

「それは忘れてください」

 彼は意地悪く笑ってまたタバコを吸った。
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