悪が過ぎ去り魔が満ちるとき

episode Ⅰ 黄昏の悪魔〜Younger Sister〜

黄昏時|《たそがれどき》はあの世とこの世の境目。
 
 陽の時間とも夜の時間ともいえない夕刻。
 
 ありえないことが起きるそんな不思議な時間。

 決して、一人で出歩いてはいけない。
 
 影の国に住む寂しがりやで少し心が壊れた魔物に攫われてしまうから。



✡✡✡




「おね〜ちゃーん、おね〜ちゃーん!」

 影の伸びた街角で少女が一人迷子になっていた。

「おねえちゃん、……はやくむかえにきて」
 
 少女が歩くたびうさぎの耳が揺れた。
 少女はグスっと鼻を鳴らすと営業時間の終わったシャッターの降りた店先に座り込んだ。
 都合がいい、とはわかっている。そして、姉が迎えにこないということも。

 みやもとさやか。

 この前おねえちゃんが作ってくれたうさぎのポシェットにそう書かれている。

「ここ、どこなの……?」

 三日前ここ、夕幻《ゆうげん》街に引っ越してきたさやかはここが今どこで何があるところなのかさっぱりわからない。
 それにただでさえ広い街なのだ。背の低いさやかには自分の周りのすべてを壁で囲まれてしまったような、そんな錯覚に襲われる。

「……ぜんぶ、おねえちゃんのせいだ」

 さやかの脳裏にはついさっき喧嘩して別れた姉――ななの起こった顔が張り付いていた。
 何も、あんなに怒らなくても良かったのではないか。さやかはうさぎのポシェット――みみちゃんを抱きしめてそう思った。


 
✡✡✡


 
 喧嘩の理由はほんのささいなことだった。
 さやかは次の春で小学生になる。引っ込み思案なさやかは、なかなか幼稚園でもお友達ができない。園の子に話しかけられてもモゴモゴと口ごもってしまうだけで上手にお話ができなかった。だから、姉にそうだんしようと思ったのだ。

「ようちえん、いきたくない」

 今日の夕方、さやかはななにそういった。
 
 (おねえちゃんならわかってくれる)

 だってさやかより背が高く一人でお買い物もできて、それに知らない人とも上手にお話できるのだから。
 だからきっと、さやかのこの辛い気持ちもわかってくれる。そう思っていた。

 (……なのに)
 
「幼稚園に行きたくない……」

 ぽつり、と姉はくりかえした。
 
「うん。あのね、おねえちゃん――」
「……さやか、なにいっているの?」

 ななの目も声もとても冷たかった。

「……え?」
「さやか、幼稚園はいかなくちゃいけないんだよ。みんな行ってるでしょ?さやかだけ休むって……。ズル休みじゃない?」

 洗い物をしながらななはさやかにそういった。カチャカチャと、お皿を洗う音だけがキッチンに響く。
 
 (ちがう。さやかが言いたいのはそうじゃない)

 けれど、うまく言いたいことが出てこない。
 えっと、えっと、といっしょうけんめい考えていると。
  
「……わたしだって、休みたいよ」
 
(おねえちゃん……?)

 ピタッと手を止めてななはうつむく。異様な、いつもとはちがう、なんだか変な気がした。
 すると。
 
「……のせいだ」
 
 さやかの目にはななから黒いような、でも茶色いような。はたまた緑色のような不思議なモヤがかかっているように思えた。

 (なんだろう、あれ)

 そちらにばかり気が取られていたせいで、姉の声を聞き逃してしまった。それに、口に出された声は小さくて、よく聞き取れなかったこともある。そんな空気を察してか、ななは声を上げていった。

「全部さやかのせいだよっ!……お母さんが帰ってこないのも、お父さんが毎日遅いのも……全部」

「さやかのせい……」

 なんのことだか、さやかにはいまいちわからなかった。
 
「わたしが毎日友達とも遊びに行けないで、こうしてさやかの面倒を見て、お皿洗って、料理して……どうしてわたしだけ」
 
 けれど、ななが怒っているのはわかる。

「そうだ、そうだよ」

 何かに気づいたようにななはいう。
 どうして気づかなかったのか、と。

「ぜんぶさやかのせいなんだよ……ッッ!!」
 
 どんどんどんどん、熱が入っていったのか、ななのこえは悲鳴のような声へと変わる。

「……さやかなんか、さやかなんか……ッッ!生まれてこなければよかったんだよ……!」

 とたん、ヒュッと喉が鳴る音がした。心臓がドクドク、と激しく暴れ、目に涙がたまる。

「……そうだよ。さやかがいるからわるいんだよ。さやかが生まれてこなかったら、わたしの妹にならなかったら、わたしはお父さんとお母さんといっしょに……」

 ななは自分に言い聞かせるように何度もそういった。

 さやかが生まれてこなければよかった、と。
 
「〜〜〜ッ……ヒック……ぅぅ〜〜」
「……ねぇ、泣かないでよ」

 気づけば涙が溢れていて声を上げて泣いていた。

「……ぅぅ、ぅあ〜〜ん、ッくぅ……ぇーん」

 なぜ、姉はこんなことを言うのだろう。いつも笑って優しいのに。

 (だれ……)

 今、さやかの目の前にいるのは――
 
「おねえちゃんじゃない……」
「……ッ!」

 大好きな姉の姿をした、怪物だ。

「……泣けばいいって、泣いたら誰かが慰めてくれるって、思ってるの?……いいよね、さやかは。そうすればみんな、みーんな!……あんたをかばってくれる」

 ななが怒るたび、何かを口にするたびに。モヤが色濃くうずまいていく。
 さっきから、何を言われているのか。さやかはなんで怒られているのか。ななは何に怒っているのか。わからなかった。ただ、さやかは、

 (こわい)

 そう思っていた。

「わたしだって辛いんだよッ!苦しいんだよ……、寂しいんだよ」

 いつの間にかななの目にも涙が浮かんでいた。そして瞬きと同時につぅ、と流れた。

「さやかなんてどっか行っちゃえ!いつもいつも自分ばかり、わたしの気持ちなんて考えないで。……もう顔も見たくない!」

 ななにそう言われると同時さやかは駆け出していた。机の上に置いてある大好きなみみちゃんのポシェットを掴み、玄関で急いで靴を履き、夕暮れ時の街に飛び出した。

 
 ななから逃げたのは心の防衛本能だったのかもしれない。



✡✡✡



 うずくまって必死に涙を我慢していると、ふいに暗くなった。

 (え?)
 
 顔をあげると、そこには不思議なナニカがいた。
 ソレは人のような形をしていた。

「……だれ?」

 ななと同じ黒いような、でも茶色いような。はたまた緑色のような不思議なモヤがかかっていた。

「……ァァ、マイご、ぉ?」

 何か雑音が混ざったような異質な声でソレはいった。
 ふと気がつくと。そこはさやかが座り込んでいたあの街ではなかった。いや、街ではない、とはっきりと言えるわけではない。ただ、なんだろう。後ろにあるシャッターの閉じたお店も、自分の周りをすべて壁で囲まれてしまったように思えるたくさんの家も。すべてはそのままそこにある。なのに……。

「……ここは、どこ?」

 ちがう。ここはさやかの知っている街じゃない。

「……マイ、ごォ。カ……ワイそう?マイごォ!」

 目の前にいるソレは『まいご』とくりかえしている。

「……ち、ちがう!さやか、まいごじゃないもん!」

 そう、さやかはまいごではない。自分自身にそういいきかせた。
 すると、ソレは口が耳まで裂けるんじゃないかというほど、ニタァ、と笑った。

「……ヒィッ」

 思わず小さな悲鳴を上げてしまう。

「チガウ、ヨォ。オマエ、はマイごォ。……か、カエル?バショヲォ、シラナイ?ワカぁ、らないィ……マイごォ!!」
「キャァァァァ!!」

 そういってソレはバサァ、と両腕を広げた。そしてその時、ぼろぼろの布の間から、骨が覗いているのが見えた。

 (ほ、ほね!どうして、なんで??)

 逃げなくては。本能的にそう感じた。

「はぁ、はぁ、はぁ……ぁ」

 走った。いっしょうけんめい足を動かして、明るような暗いような、いまがいつなのかもわからない、見知らぬ街を走った。けれど、さやかはまだ幼稚園生だ。いくら次の春で小学生になると言っても、まだ身長の低いさやかと、ななよりも更に高い、すっぽりと覆ってしまいそうなソレから、逃げ切れるはずもなかった。

「……ぁッ!」

 途中で転んでしまった。ころんだひょうしにみみちゃんがポン、と離れたところへ落ちてしまった。

「みみちゃん!」
「ニゲェ、られナイ!……ど、どうして、ニゲェ、る……ぅ」
漢字(かんじ)漢字(かんじ)
 ゆっくり、ゆっくりとソレは近づいてくる。あんなに必死に走ったというのに距離はぜんぜん離れてなどいなかった。

「……イッショ、ニィ、いコう?ズゥっとイッショォォォ!!」

 バサァ、と汚れた布を広げ骨だけの腕をさやかに伸ばす。

 (いや、こないで……!!)

 ギュッと目をつぶりさやかは身構える。
 もう、お姉ちゃんにもお父さんにも、そして会ったことのないお母さんにも会えないんだ、とさやかは思った。
 こんなことになってしまうのなら、あんなこと言わなければよかった。
 後悔だけが胸に残る。

 しかし、いくら待ってもさやかを連れて行こうと腕を掴まれる気配はなかった。

「……え?」

 恐る恐る目を開けるとそこにはソレの腕を掴む男の人がいた。

「……いけませんよ。まだこんなに幼い子供を連れて帰っては」

 そういうとその人は手に持ったステッキをふるとソレを家の壁の方へ吹き飛ばした。
 さやかの視線に気づいたその人は、おや、というと頭に被った黒く背の高い帽子を外し優雅にお辞儀をした。

「こんにちは、こんばんは。幼いお嬢さん」

 その姿はまるで、絵本に出てくる王子様のようだった。

「おうじさまだ……」

 気づけばそう口に出していた。あ、と急いで口を抑えるが、一度出てしまった言葉が戻ってくるわけでもなく、カァ、と頬が熱くなるのを感じた。

「おやおや、私は『おうじさま』なんていうキラキラしたモノなどではありませんよ」

 その人は微笑んでいった。

「じゃあ、おにいさんはなんなの?」

 そう、さやかが尋ねると、おにいさんは帽子を被り直し、くるり、と手に持ったステッキを回すと再度、優雅にお辞儀した。

「申し遅れました。私は黄昏《たそがれ》。この夕幻街に住まう悪魔です」
  

 

  
< 1 / 3 >

この作品をシェア

pagetop