悪が過ぎ去り魔が満ちるとき

そういう悪魔は、昼の終わりに姿を見せる、あのとけゆくような陽の光をした金色の髪に、夜の始まりを思い出させるような暗いけれど輝く紫色の瞳をしていた。

「……たそ、がれ」

 その人――悪魔の名前をくり返す。
 得体のしれない夕日が一層差し込んできた。僅かに、けれども確実に伸びゆく影が、時が過ぎゆくのを感じさせる。

「小さなお嬢さん、貴女の願いを叶えましょう」

 静かに黄昏はいった。

「……でも」

 悪魔と契約するときはお代を払わなくてはいけない。どんなモノを払うのか。ソレは、願ったものの大きさにもよるが、契約した悪魔自身が決めるという。

「……ァァ、マイ、ごォ……!ィイくなァァッッ」

 ビクッと体が反応する。黄昏によって吹き飛ばされていたソレが壁から抜け出そうと、そしてさやかの腕をつかもうともがき始めた。

 (どうしよう。……どうすればいいんだろう)

 小さなさやかにはどうするべきかわからない。

 (おねえちゃん……)

「お嬢さん、怖がらないで。私は、私たちは貴方達に危害を――怖い思いをさせるようなモノではありません」

 優しく悪魔はいう。
 ひとまず逃げましょう、と黄昏はさやかを抱きかかえ街を走る。

「……ニぃガスカァァァ!」

 バキッ、と壁にひびがはいり、ソレが抜け出してくる。さやかを追いかけて捕まえようとしたときはあんなにゆっくりとした動きだったのに。いまはどうだろう。腕と足がバラバラにものすごい速さで振られ走っている。

「……アハッあは……ァァ」

 黄昏にしっかりと掴みさやかはギュッと目を閉じる。ソレが発する不気味な声が耳に残る。
 タッタッタッタッ、と軽やかに黄昏は暮れゆく街を駆け抜ける。それを追うようにまた、ソレも近づいてくる。

「……やっかいですね」

 ちらり、とソレを流し見し、どうしたものか、と黄昏は思案する。

 (お嬢さんと契約していない今は、能力を使うことはできません)

 この小さな人間はどうするのだろう。腕の中で震えるさやかに黄昏はどこか心配するような表情を向けた。
 すると前方に、建物が見えた。
 いや、見えた、というのは少し語弊があるけれど。街にはいくつもの家があり、建物がある。けれど、黄昏が入ることのできる『鍵のかかっていない』建物は少なかった。

「お嬢さん、つかまっていてくださいね」

 そういうと黄昏は地面を蹴り、ふわりとその柵をこえた。

「……ここは?」

 黄昏の腕から降り、さやかはあたりを見回す。そこは広いグラウンドや遊具、そしてとても背の高い建物がそびえていた。

「ここは小学校、ですよ」

 くるり、とステッキを回し黄昏はいった。

「しょうがっこう」

 ななの行っている小学校だった。そしてここに来年、さやかも入学する。

「……急いで中へはいりましょう」

 黄昏が向ける視線の先にはソレが柵をよじ登っている姿が捉えられていた。
 手を引かれ校舎へとはいる。しん、と静まりかえった校舎にカツン、カツン、と靴音が木霊している。
 二階へ上がり教室ヘとはいる。小さな机と椅子が並べられ、黒板には見たこともない文字が刻まれていた。
 ガタ、と椅子を引きさやかは座る。そこは、姉――ななの席だった。

「……おねえちゃんの席だ」

 ななの机も椅子も、さやかには大きかった。足はつかずぶらぶらする。

「たそ、がれさん……。さやかのおはなし、きいてくれる?」

 姉の席に座りながら窓辺にいる黄昏に声をかける。もちらんですよ、と黄昏は返した。
 このときどうして、はじめてあったばかりの、それも、悪魔に話そうと思ったのかさやかにはわからない。けれど、黄昏の纏うこの優しくて、どこか悲しそうなこの雰囲気がさやかを安心させたのかもしれない。

「あのね、さやかね、おねえちゃんとけんかしちゃったの」

 そういうと心の奥がズキン、といたんだ。

「ようちえん、いきたくないっていったの。……そしたらね、そしたら……、おねえちゃんが」

 『さやかなんか生まれてこなければよかった』

 黄昏は何も言わず話を聞いている。

「おねえちゃん、どうしておこってたの?さやかがようちえんいきたくないっていったから?」

 言葉にするたびのどがきゅっと縮むような気がした。ツン、と鼻の奥がいたくなる。
 
「……それとも、さやかが、さやかが生まれてきちゃったから?おねえちゃん、さやかのこときらいになっちゃったの?」

 気づけば、さやかは泣いていた。とめどなくあふれる涙が視界を濡らしていく。
 少し開いた窓から風が吹き込みカーテンをゆらす。黄昏はすぐに言葉を口にしなかった。ただ、さやかを見つめていた。いや、さやかだけじゃないどこか別の誰かも見ているようなそんな気がした。
 
「そんなことありませんよ」

 やがて、近づき静かに黄昏はいった。

「お嬢さんのお姉さんは貴女のことを嫌いになどなっていませんよ」

 黄昏は微笑んでいる。
 
「どうしてわかるの……?」

 濡れた瞳で見上げれば教室の何もかも、目に映るすべてがゆらいでみえた。
 それはですね、と黄昏はななの机に近づき引き出しに手を入れた。

「これがあるからですよ」

 黄昏の手にあったのはさやか、と書かれた一冊のノートだった。

「さやかのなまえ……」

 受け取り中を開く。そこには生まれたばかりのさやかを抱くななと、それを囲む父、そして――。

「あかあさん?」

 あったこともない母の姿だった。

「これはお嬢さんのお姉さんが貴女の為に一生懸命書いた貴女だけの日記ですよ」

 (おねえちゃんがかいた……)

 そこにはさやかが生まれた日のこと。なくなる直前に大好きな母と交わした約束のこと。毎日、毎日。一日も欠かすことなく書かれた、それはさやかの成長記録。
 ポタ、ポタ、としずくがノートに落ちる。

「ね、わかったでしょう。お姉さんは貴女のことをとても大切にしているということを」

 優しい眼差しが向けられる。

「……でも、おねえちゃんおこってた」

 どんなに自分のことを大切にしてくれていようとも、それは過去であって、今ではないのではないだろうか。

「お嬢さん。お姉さんも貴女と同じ人間です。完璧な人などこの世にはいないのです。疲れてしまうこともあるでしょう。誰かにその辛さをわかってもらいたくて、強くあたってしまうことも、もしかしたらあるかもしれません」

 かがんで黄昏はさやかと目線をあわせた。

「けれど、姉妹のきずなは強いものです。ちょっとやそっとでは壊れたりなどしませんよ」

 私もそうでしたから、と寂しげに黄昏はいった。

「悪魔さんにも、おねえちゃんがいたの?」
「いいえ、弟が一人いました」

 僅かに声が沈んだようにさやかは感じた。

「もう、会えないんです」

 そういって黄昏は悲しそうに帽子で表情を隠した。

 (会えないってどういうことだろう。でも……)

 ななともう二度と会えなくなるのは嫌だ。
 喧嘩して分かれたはずの姉にいま、ものすごく会いたい。ここにななはいないのに、この机と椅子が、さやかにななの気配を感じさせる。

「……おうち、にかえりたい」

 ぽつり、と言葉がもれた。

「かえりたいよぉ……。おねえちゃん、……ぅっく……おとうさんにあいたい」

 再度、ポロポロと涙が頬を伝う。そうだ、さやかは帰りたかったのだ。家を飛び出したけれど、心のどこかでななが迎えにきてくれるのではないか、ときたいしていた。

「それがお嬢さんの願いですね」

 黄昏がいった。
 
 すると――

 ビタンッ、とドアが鳴り、そこにニタァ、と笑ったソレがいた。

「……ミィつケタぁ……ッ!」
「……あ……ぁぁ、いやぁぁぁ!」

 薄れていた恐怖が体を駆け巡る。
 ガララッ、と勢いよくドアが開かれソレがゆっくりと詰め寄ってくる。
 黄昏はさやかをかばうように立つと、ステッキを構えソレと対峙した。

「お嬢さんを渡す気はありません」
「……ぅぅウルさァァイィッッ!……ニ、ニガスものカァ……ッ」

 そういうとソレは黄昏に飛びかかった。ガンッ、とステッキで受け止めいなし、勢いをころしていく。

「お嬢さん……ッ。屋上で会いましょう。今は逃げてください……!」
「うん……っ!」

 黄昏の言葉を聞くと同時さやかは走り出した。屋上の場所は知っていた。ななの運動会に来たとき、ななが、この先には屋上があるんだよ、と教えてくれた場所があるからだ。
 屋上があるのは四階。今さやかたちがいるのは二階。三階へと続く階段をさやかは登る。

 (このさきに四階の、屋上の階段が……!)

 三階にたどり着き振り返ると、そこには階段がなく、ただ壁があった。

「……どうして!?」

 屋上へと続く階段は東側にあるのだ。けれど、さやかが登ってきた階段は西。しかし、幼いさやかにはそんなことわからなかった。

 (どうして、どうして、どうしてっ!)

 焦りと不安が募っていく。しかしそのとく、背後でカツン、と音がした。
 
 (たそがれさんだ!)
 
「たそがれさ……」

 あの悪魔の名前を呼ぼうと振り返るとそこにいたのは――

「キャァァァァアア!」

 骨の腕を広げボロ布をまとう、ソレの姿だった。
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