若旦那様の憂鬱
「花が嫌がる事は何もしない。
大丈夫だから、入っておいで。」

そう言って、花に手を差し伸べる。

「お、お邪魔します…。」

花はおずおずと靴を脱いで、揃えて、
柊生に向き直り、用意されたスリッパに足を入れ、差し出された手をそっと握る。

「どうぞ。」
柊生はそう言いながら、
爽やかな笑顔を向けて花をリビングに導く。

リビングは20畳以上はありそうな広さで、
一面鏡張りの窓からは、暖かな光が降り注いでいた。

「うわぁ、温泉街まで見渡せる…。」

花は思わず窓際に駆け寄り、素晴らしい景色に意識が吸い寄せられる。

「この道を辿って、左側の坂道を登った上。あそこが一橋旅館だ。」
柊生は花に近付き、場所を指し示す。

「あっ…本当だ。旅館の屋根が見える。」

花は旅館を見つけた事で、
少し緊張が緩み、しばらく夢中になって窓の風景を楽しみだした。

「あっ!あれがもしかして、私が働いてるコンビニ?」
そう指で示しては、柊生に回答を求る。

しばらく、そんなやりとりを繰り返し、
花は少し落ち着き出す。

一通り質問し終えてやっと心拍が通常に戻る。
改めてリビングを見渡し部屋の広さにびっくりする。

「本当に、この広い部屋に1人で住んでるの?」

「ずっと1人だって言ってるだろ。
花に嘘なんかつかない。
税金対策として4年前に買ったんだ。」

「かっ、買ったの⁉︎」
びっくりし過ぎて声が大きくなってしまった。

「大学の時に株式投資を始めて、
ちょっとまとまった金が出来たんだ。
丁度、ここが売り出されたから買う事にした。」

「そ、そんな簡単に買える、ものじゃないよね……。」

花には何が何だか分からなくて…、

ただ、柊生は花が思っていた以上に
ただ者ではないって事は理解できた。

「だから、花1人くらい直ぐにでも養えるから。いつでも来てくれていいよ。」

唖然として、しばらく柊生を見つめる。

「びっくりされるか、怖がられるかとは思ったけど…、
思ってたより落ち着いててよかった。
ずっと、話して無くてごめん。
兄の立場で話したら、
花が離れて行きそうで言えなかった。」

申し訳なさそうに、柊生は花を見下ろす。

「…びっくりはしてるよ⁉︎」

これ以上無いぐらい驚いているのだが、

花の思考回路がショートして、
ノーリアションになっているだけに過ぎなかった。

「とりあえず、ソファに座って寛いでて。
何か温かい飲み物を用意する。」

「ホットココアか紅茶どっちが良い?」

花は言われるままに、
窓を見渡せるように置かれた大きなソファにちょこんと座る。

「えっと、ホットココアで、お願いします。」
かしこまってそう答える。

柊生はオープンキッチンに向かい、
手際良く飲み物を用意する。

「熱いから気を付けろよ。」
そう言って、マグカップをセンターテーブルに置く。

「ありがとう。」
花はそれを両手でそっと持ち上げて、
ふうふうと息を吹きかけちょっとずつ飲み始める。

その仕草を可愛いなと柊生は思いながら、
自分用のコーヒーを入れたマグカップを持って、花の隣にズカッと座る。

「美味しい、温まる。」

そう言って終生に笑顔を向けてくるから、
堪らなず抱き上げ膝の間に囲ってしまう。

急速に縮まった距離に、
花は戸惑い離れようと試みるが、
腕をお腹に回されて身動きが取れなくなってしまう。

「ちょ、ちょっと終君…。」
少しパニックになりながら、
花は困った顔で柊生を振り返る。

「このぐらいは許して。」
ぎゅっと後ろから抱きしめられてしまう。

「少しは慣れてくれ。」  

体を硬くして固まってしまう花を、 
柊生は苦笑いしながら頬にキスをする。
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