太陽と月の恋
「昨日のこと、覚えてる?」

と、河辺さんが言ってきたのは、セガワフィットネスクラブの更衣室へと向かう廊下のことだった。

私は今日一日、河辺さんと会ったらどんな顔して話せばいいのか密かに悩んでいたところ、彼はパコーンと壁を打ち破ってきた形だ。

対面してしまった恥ずかしさに、私は「うん」とだけ頷くと、彼はニカッとお馴染みの笑顔に変わる。

「まじで酒飲んで記憶ぶっ飛んでたらどうしようかと思った!」

大声で彼が言うもんだから、私はつい周囲を気にしてしまった。丁度そのタイミングで他の社員さんが受付の方から「河辺さん」と声を掛けてきた。
河辺さんはハッとして、「じゃ、連絡するから!連絡するから!あとで!」と口パクに近い小声で言い、受付の方へと走っていった。

またお馴染みの制汗剤の香りと洗剤の香りが残る。好き。

さあ、今日はどうしよう。

ジム3連チャン。

ふと更衣室の鏡の前を通った時、自分の肩が前に丸くなってることに気付く。

いかんいかん、私。

指摘されて初めて自分がいかにカッコ悪い姿勢だったか分かった。

誰も教えてくれなかったなあ。

着替え終わって更衣室を出ようとした時、スマホにメッセージが届く。

「今日仕事終わったら電話していい?」

恋の始まりってこんなんだったんだな。
拓郎とは始まってもいなかったのかな。

向こうから歩み寄ってくれる世界が、ただ安らかで暖かくて穏やかで、私はしばらくこういった幸せを味わっていなかったことに気付いた。
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