この恋がきみをなぞるまで。


先生はそれきり喋らなくなって、時折呼吸が苦しげになる。

リクライニングを倒して体勢を変えてあげたとき、ふと先生の傍らに、写真の束があることに気付いた。

その写真はすべて、わたしと千里が先生に習っていたころのもので、ほとんどが作品の写真だったけれど、時々人も写っていた。

もう名前も覚えていないような子もいて、千里もいて、わたしもいる。

それを見ていたときにちょうど恵美さんが様子を見にきて、写真は病院でもずっと眺めていると言っていた。


「先生?」


返事はないけれど、言葉を続ける。


「わたしもずっと、わたしのことを守ってくれる人はいないと思ってた。でも書道はずっとそばにあって、大切で、これからもずっと、心の真ん中にいてもらいたい」


眠っているのかもしれないけれど、聞こえていなくても良かった。

伝えずに後悔することだけは、嫌だったから。


「先生も千里も、恵美さんも、ずっとわたしのこと、守ってくれてたよ」


眠れないほど不安な夜も、明けてしまえばわたしを迎え入れてくれる場所があって、それがどれほど支えになっていたか。


「先生、ありがとう」


顔を覗いて言うけれど、先生は眠っているようで、苦しそうだった呼吸も少し楽になっていた。

部屋を出て恵美さんに声をかけると、入れ替わりで部屋に入っていった。

おじさんと交代で、ほとんど時間を先生のそばについて過ごしているらしい。

夕方の書道教室もしばらく休んでいると言っていたのに、わたしと千里のことは呼んでくれた。

すれ違ったおじさんにもお礼を言って、庭を見させてもらいながら、連絡した日和さんの迎えを待つ。


手には手紙を持っているけれど、これを読んでいいのかどうか迷う。

城坂くんが、筆の代わりにと置いたものだけれど、代わりというのなら桐箱に入っている『千』の筆だけで事足りる。

真意が知りたくて、でもそれを確認する手立てがない。


門の向こうに日和さんの車が見えて、敷地を出る前に一度、家に向かって深く頭を下げた。

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