この恋がきみをなぞるまで。


5月半ばに恵美さんから電話があった。

声を聞くのは、1月に事情を話してしばらくは行けないと伝えたとき以来で、最近の様子を聞きながら、声に覇気がないことには気付いていた。

何となく、嫌な予感がしていた。

電話の最後に、先生の具合が良くないと言った恵美さんの声は沈んでいて、気の利かない返事をするしか、できなくて。


先生の希望で一度家に帰ってくることになったけれど、次はないかもしれないから、と暗に伝えられて、胸に鉛が落ちたような感覚に陥る。

帰ってくる日取りを聞いて、変更がなければまた連絡をすると言われて電話を切った。


足元がぬかるむような心地で、呼吸が浅くなる。

以前会ったときの、痩せた体と顔色の悪い先生の姿を思い出して、祈るように手を握った。


日和さんに頼んで、その日は書道教室に送ってもらった。

この辺りにいるから、帰るときは連絡して、と去っていく車を見送ってから、深く深呼吸をしてインターホンを押す。


恵美さんは少し痩せていて、わたしを迎えたときの笑みもどことなく、悲しげだった。


奥の部屋に案内されると、先生は以前はなかったベッドにいて、起こしたリクライニングに上体を預けていた。


「先生」


声をかけると、ゆっくりと振り向く。

痩けた頬、手首の細さや浮き出た血管、目は開いているけれど、一度重い瞼が落ちると、しばらくは閉じたまま。

そばに座って、その手を握り、言葉も声もない空間を作っていたけれど、不意に沈黙を割ったのは先生だった。


「昨日は、千里が来ていた」

「……うん」

「芭流と、同じことを言っていた」

「同じことって」


聞き返すけれど、先生はすぐには答えずに、また深く目を瞑る。

しばらくして口だけを開いた先生は、先程の問いかけではなく、別のことを話し始める。


「芭流の筆を出したのは、千里が中学生で」

「え……」

「いつも体のどこかに、怪我をして、ここに来ることもなくなっていた。突然やって来て、芭流の筆がほしい、と、言って」


いつの間にか、先生の目は開いていた。

わたしの知らない城坂くんとの時間のことを思い出すように、ぼんやりと遠くを見ている。


「頼む、と何度も言うが、あの筆は芭流が帰ったときに渡すためのもので、駄目だと何度も言うのに、聞かずにずっと頭下げて」

「そんなこと……」


城坂くんがするわけがない、と思う。

でも、わたしの筆を城坂くんが持っているのは事実だ。


「芭流、机を開けてくれ」

「机?」

「中に、入れているから」


何を、と問う前に体が動いて、先生が使っていた文机の引き出しを開ける。

中には白い封筒が横たわっていて『芭流へ』と書かれていた。

きっとこの字は、他のたくさんの文字と並べられたとしても、絶対に見つけだせるだろう。

大切な、人の。

城坂くんの、書いた字だから。


「芭流がいつか、ここへ来たときのために、代わりにとそれを寄越して、あんまり長く頼むから、筆を渡した。千里は、物は大切にするから。信用して、渡した」


封筒はしっかりと封がされていて、微かな厚みもある。

手紙だとしたら、何が書かれているのだろう。

筆の代わりになるようなことを、想像もできなくて、自分の名前を指先でなぞる。

< 72 / 99 >

この作品をシェア

pagetop